寿永三年三月の末、夕暮れ近き頃、紀州高野山を上り行く二人の旅人ありけり。浮世を忍ぶ旅路なればにや、一人は深編笠に面を隠して、顔かたち知るに由なけれども、その装束は世の常ならず、古金襴の下衣に、紅梅萌黄の浮文に張裏したる狩衣を着け、紫裾濃の袴腰、横幅広く結ひ下げて、平塵の細鞘、しとやかに下げ、摺革の足袋に同じ色のむかばき穿ちしは、いづれ由緒ある人の君達と思はれたり。他の一人は年の頃二十六七、前なる人の従者と思しく、日に焼け色黒みたれども、眉秀いで目涼しき優男、少し色剥げたる厚塗りの立烏帽子に卯の花色の布衣を着け、黒塗りの野太刀を履きたり。旅慣れぬにや、はた氷の徒歩に疲れしにや、二人とも弱り果てし如く、踏み締むる足に力なく青竹を杖に身を持たせて、主従相助け、あへぎあへぎ上りゆく高野の山路、はや夕日も名残りを山の嶺に留めて、稜の陰、森の下、恐ろしきまでに黒みたり。秘密の山に常夜の灯なければ、あなたの木の根、こなたの岩角に膝を打ち足を挫きて、倒れんとする身をやうやく支え、主従手に手を取り合ひて、顔見合はす毎にいや増さる吐息の数、山の山風身に染みて、入相の鐘の音に梵缶の響きかすかなるも哀れなり。
寿永三年(1184)三月の末、夕暮れ近い頃、紀州(今の和歌山県)の高野山を上る二人の旅人がいました。浮世を忍ぶ旅路でしょうか、一人は編笠を深くかぶって顔を隠し、顔かたちはわかりませんでしたが、装束は世の人と違って、古金襴([近世初期=室町時代に中国から渡来したといわれる金襴=金織物])の下衣に、紅梅萌黄([赤表に黄緑裏])の浮文([浮き織])の張裏([衣服の裏に、張帛=布帛を付けたもの])の狩衣を着て、紫裾濃([下にゆくにしたがって色濃くした染め物])の袴腰([台形の腰板を入れた袴])を、横幅広く下げて、平塵地([蒔絵で、金の細粉を器物の全面に密にまき散らしたもの])の細鞘を、上品に下げて、摺革([なめし革に、いろいろな模様をすり染めにしたもの])の足袋に同じ色のむかばき([遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛や毛皮の類])を履いた姿は、誰人にせよ由緒ある人の君達([貴人の子])と思えました。もう一人は年の頃は二十六七、前を行く人の従者([家来])と思われ、日に焼けて肌は黒くありましたが、眉が美しく目がすがすがしい上品な男でした、少し色の剥げた厚塗りの立烏帽子に卯の花色([わずかに青みがかった白色])の衣を着て、黒塗りの野太刀([戦闘用の太刀])を身に付けていました。旅に慣れていないのか、それとも凍った道を歩くのに疲れたのか、二人とも弱り果てた様子で、踏みしめる足にも力なく青竹を杖にして身を預けて、主従相助け、あえぎながら高野の山道を上って行きました。早くも夕日の名残りを山の頂に残すのみ、稜線の陰、森の下は、恐ろしいほどに暗くなっていました。秘密([密教])の山には夜を照らす灯もありませんでしたので、あちらの木の根、こちらの岩角に膝を打ち足をくじき、倒れかけた身をなんとか支え、主従手に手を取り合って、顔を見合す度に溜息の数ばかりが増えていきました。山の山風が身にしみて、入相の鐘([日暮れ時に寺でつく鐘])の音に梵缶([寺で鳴らす缶=水などを入れた瓦製の器])の響きがかすかに聞こえて悲しげでした。
(続く)