世移り人失せぬれば、都は今は故郷ならず、満目奮ふ山川、眺むる我も元の身なれども、変はり果てし盛衰に、憂き事のみぞ多かる世は、嵯峨の里も楽しからず、高野山に上りてはや三年、山遠く谷深ければ、入りにし跡をrb>訪ふ人とてあらざれば、松風ならで世に友もなき庵室に、夜に入りて訪れしその人を誰と思ひきや、小松の三位中将維盛卿にて、それに従へるは足助二郎重景ならんとは。夢かとばかり驚きながら、援け参らせて一間に招じ、身は遥か席を隔てて拝伏しぬ。思い懸けぬ対面にとかうの言葉もなく、先だつものは涙なり。滝口つらつら御有様を見上ぐれば、没落以来、幾その難苦を忍び給ひけん、御顔痩せ衰へ、青房の髪荒らかに、紅玉の肌色消え、平門第一の美男と謳はれし昔の様子、いづこにと疑はるるばかり、歳にもあらで老い給ひし御面に、故内府の面影あるも哀れなり。「こは現とは思え候はぬものかな。さても屋島をば何として遁れ出でさせ給ひけん。当今天が下は源氏の勢に満ちぬるに、そもいづちを指しての御旅路にて候ふやらん」。維盛卿は涙を拭ひ、「さればとよ、一門没落の時は我も人並みに都を立ち出でて西国に下りしが、行くも帰るも水の上、風に漂ふ波枕にこの三年の春秋は安き夢とてはなかりしぞや。あるひは寄る辺なき門司の沖に、磯の千鳥とともに泣き明かし、あるひは須磨を追はれて明石の浦に昔人の風雅を羨み、重ね重ねし憂き事の数、堪へ忍ぶ身にも忍び難きは、都に残せし妻子が事、波の上に起居する身のせん術なければ、この年月は心にもなき疎遠に打ち過ぎつ。さぞや我を恨み居らんと思へばいや増す懐かしさ。とても亡びんうたかたの身にしあれば、息ある内に、愛しき者をも見もし見られもせんとからくも思ひ定め、重景一人伴ひ、夜に紛れて屋島を遁れ、数々の憂き目を見て、阿波の結城の浦より名も恐ろしき鳴門の沖を漕ぎ過ぎて、やうやくこの地までは来つるぞや。憐れと思へ滝口」。打ち萎れし御有様、重景も滝口もただただ袂を絞るばかりなり。
世は移り変わり平家が都を去って、都は今は故郷ではなくなりました、見渡すと山と川ばかりが昔と変わりませんでした。眺める我(斎藤時頼)も元の身は同じ武士でしたが、すっかり変わり果てた盛衰に、悲しみばかり多いこの世では、嵯峨の里(今の京都市右京区)にいるのもつらく思われて、滝口が高野山(今の和歌山県北東部にある山。弘法大師=空海が開いた金剛峰寺の山)に上ってはや三年、山は都からも遠く谷も深い所でしたので、滝口が入った跡を辿って訪れる人はありませんでした、松風のほかにこの世に友もない庵室に、夜になってから訪れた人をいったい誰かと思えば、小松三位中将維盛卿(平維盛。小松殿=平重盛の嫡男)で、維盛の供をしていたのは足助二郎重景でした。滝口は夢かと驚きながらも、二人を促すように庵の一間に招き入れました、滝口は遠く席から離れてひれ伏しました。思いもかけない対面に何と言葉をかけてよいものか分からずに、ただただ涙ばかりが溢れ出ました。滝口がじっくりと維盛の姿を見上げると、平家が都落ちしてからというもの、幾度の難苦を忍んできたことか、青くふさふさした髪はぼさぼさで、つやつやとした肌の色は消えて、平家一番の美男と噂された昔の有様は、どこへ消えたのかと驚くばかりでした、歳には見えないほど老いた顔に、故内府(内大臣重盛)の面影があるのが滝口にはいっそう悲しく思われました。滝口は「まったく現とは思えません。でもどうして屋島(今の香川県高松市)を遁れて来られのです。今の天下は源氏の勢に満ち満ちておりますのに、いったいどこを目指しての旅でございましょう」と訊ねました。「それは、平家一門が都落ちの際はわれも皆とともに都を出て西国へ下ったのだが、行くにしろ帰るにしろ海の上、風に漂い波を枕にこの三年間は楽しいことなどなかった。ある時は船を着ける所もない門司(今の福岡県北九州市)の沖で、磯の千鳥とともに泣き明かし、ある日は須磨の浦(今の兵庫県神戸市須磨区)で昔人の雅び(須磨は歌枕=和歌に多く詠み込まれる名所)を羨んで、積み重ねた憂き事の数を、耐え忍んできたがそれでも堪え切れないのが、都に残した妻子のことだった、波の上で寝起きする身であればどうすることもできなくて、この年月を心ならずも疎遠に過ごしてきたのだ。さぞわたしのことを恨んでいることだろうと思うとさらに懐かしさは増すばかり、いつかは亡びるはかない身だと思えば、生きているうちに、愛しい妻子に再会したいとなんとか思い切って、重景一人だけを連れて、夜に紛れて屋島を遁れ、数々の苦労を重ねて、阿波の浦(今の徳島県海部郡由岐町)から名に聞くのも恐ろしい鳴門の沖(今の徳島県鳴門市。鳴門の渦潮で有名)を漕ぎ過ぎて、ようやくこの地までやって来たのだ。憐れと思わぬか滝口よ」と答えました。気力もなくした維盛の姿を見るにつけ、重景も滝口もただただ袂を絞るばかりでした。
(続く)