重景が事、かくあらんとは予ねてよりほぼ察し知りし滝口なれば、さして騒がず、ただただ横笛が事、端なく胸に浮かびては、さすがに色に忍びかねて、法衣の濡るるを思えず。打ち萎れたる重景が様を見れば、今さら憎む心も出でず、世にときめきし昔に思ひ比べて、哀れは一入深し。「若き時の過ちは人毎に免れず、懺悔めきたる述懐は滝口却って迷惑に存じ候ふぞや。恋には脆き我れ人の心、など御辺一人の罪にてあるべき。言うて帰らぬ事は言はざらんにはしかず、何事も過ぎし昔は恨みもなく喜びもなし。世に望みなき滝口、今さら何隔意の候ふべき、ただただ世にある御辺の行く末永き忠勤こそ願はしけれ」。淡きこと水の如きは大人の心か、昔の仇を夢と見て、今の現に報いんともせず、恨みず、乱れず、光風雲月の雅量は、さすがは世を観じたる滝口入道なり。
重景(足助重景)のことを、話す通りだとかねてほぼ思い知っていた滝口(斎藤時頼ときより)でしたので、さほど驚かず、ただただ横笛の姿が、思いがけなくも胸に思い出されて、さすがに心を隠すこともできずに、思わず法衣を涙で濡らしました。満身創痍の重景の姿を見れば、今さら憎む心も出て来ず、世にときめいていた昔を思い比べて、あわれさを一層深く思う滝口でした。「若い時の過ちから誰も逃れることはできません、懺悔の述懐([思いを述べること])などわたしには却って迷惑なことです。恋に脆くなるのは誰しも同じ、どうしてあなた一人の罪でありましょうか。申したところで昔は帰ってこないのですから言うことはありません、何事も過ぎてしまえば恨みも喜びも消えてしまうものなのです。世に希望もないわたしです、今さらわたしに隔意([遠慮])しても仕方のないことです、ただただ浮世にいるあなたが行く末永く平家に忠勤することを願っております」と言いました。その水のように淡く優しい口調は大人の心なのでしょうか、昔の仇を過ぎ去った夢と思い、今の現に報いようとともせず、恨まず、心を乱すことのない、光風雲月のような雅量([人をよく受け入れるおおらかな心])は、さすが世の安楽を願う滝口入道でした。
(続く)