次の御門、推古天皇と申しき。欽明天皇の御娘。御母、稲目の大臣の娘、蘇我小姉君姫なり。壬子の年十二月八日に、位に即き給ふ。御年三十八。世を知ろし召す事、三十六年。位に即き給ひて明くる年の四月に、御門「我が身は女人なり。心に物を悟らず。世の政は、聖徳太子にし給へ」と申し給ひしかば、世の人喜びをなしてき。太子はこの時に太子には立ち給ひて、世の政をし給ひしなり。その前はただ皇子と申ししかども、今、語り申す事なれば、先々も太子とは申し侍りつるなり。御年二十二になんなり給ひし。今年四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。元は玉造りの峰に立て給へりき。
次の帝は、推古天皇(第三十三代天皇)と申されました。欽明天皇(第二十九代天皇)の娘でした。母は、稲目大臣(蘇我稲目)の娘、蘇我小姉君でした。壬子の年(592)の十二月八日に、帝位に即かれました。御年三十八でした。世を治められること、三十六年。帝位に即かれて明くる年の四月に、推古天皇は「我が身は女人です。心にものを悟ることはありません。世の政は、聖徳太子がなさいまし」と申したので、世の人はよろこびました。聖徳太子はこの時に太子([皇太子])に立たれて、世の政を行いました。その前は皇子と呼ばれていましたが、今、話すことですので、今までも太子と呼んでいたのです。聖徳太子は御年二十二になっておられました。今年四天王寺を難波の荒陵(現大阪市天王寺区)に移されました。元は玉造りの峰(現大阪市中央区)に立っておりました。
(続く)