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「水鏡」皇極天皇(その3)

入鹿いるかが父の大臣これを聞きて、「罪なくして太子の御後を失ひ奉れり。我ら久しく世にあるべからず」と驚き歎き侍りき。三年と申しし月に天智てんぢ天皇の中大兄皇子と申しし御時、法興ほふこう寺にて鞠を遊ばし給ひしほどに、御沓の鞠に付きて落ちて侍りしを、鎌足の取りて奉り給へりしを、皇子嬉しき事に思して、その時より相かたみに思す事、つゆ隔てなく聞こえ合はせ奉り給ひて、その御末の今日までも、御門の御後見はし給ふぞかし。よき事も悪しき事もはかなきほどの事ゆゑに出で来る事なり。十一月に大臣蝦夷その子の入鹿、厳めしき家を造りて、内裏の如くに宮門と云ひて、我が子どもをば皆皇子と名付けき。五十人の兵を身に従へて、出で入りにいささかも立ち離れざりき。かくてひとへに世の政を執れるが如くなりしかば、御門、入鹿を失はんの御心ありき。また、天智てんぢ天皇のいまだ皇子と申ししも同じくこの事を御心の内に思し立ちしかども、思ひのままならざらん事を思し恐れしほどに、鎌足、皇子を勧め奉りて、蘇我宿禰すくね山田石川麻呂が娘を仮初めに逢はせ奉りて、この事を謀り給ひき。




入鹿(蘇我入鹿)の父である大臣(蘇我蝦夷えみし)はこれを聞いて、「罪もなく聖徳太子の子孫を殺害した。我らが長くこの世にいることはないだろう」と驚き嘆きました。皇極天皇三年(644)と申す月天智天皇(第三十八代天皇)が中大兄皇子と申していた時、法興寺(現奈良県高市郡明日香村にある飛鳥寺)で蹴鞠をしていましたが、沓が鞠とともに落ちました、鎌足(藤原鎌足)が沓を取って差し出すと、中大兄皇子はうれしく思って、それより互いに無比に思い、親密に語らい合って、その末の今日までも、帝(第三十五代皇極くわうぎよく)の後ろ見を務めていました。よい事も悪い事もたちまち処理しました。十一月に大臣蝦夷とその子の入鹿は、贅沢を極めた家を造り、まるで内裏のように宮門と呼んで、子どもたちには皇子と名付けました。五十人の兵をそばに従えて、出で入りにはわずかの間も離れることはありませんでした。こうして意のままに世の政を執るほどになったので、皇極天皇は、入鹿を殺害しようと思うようになりました。また、天智天皇はまだ皇子と呼ばれていましたが同じことを心の内に思っていましたが、思い通りにいかなかった時のことを恐れてもいました、鎌足(藤原鎌足)は、中大兄皇子に勧めて、蘇我宿禰山田石川麻呂(蘇我倉山田石川麻呂そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の娘(遠智娘をちのいらつめ)を妻にして、入鹿殺害を企てました。


続く


by santalab | 2014-03-14 20:07 | 水鏡

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