清麻呂悲しびをなして、輿に乗りて宇佐の宮へ参れりしに、猪三万ばかり出で来たりて、道の左右に歩み連なりて十里ばかり行きて、山の中へ走り入りにき。かくて清麻呂宇佐に参り着きて拝し奉りしに、すなはち本の如く立ちにき。託宣し給ひて、神封の綿八万余屯を賜はせき。同じき四年三月十五日に、御門由義の宮に行幸ありき。道鏡日に添へて御覚え盛りにて、世の中すでに失せなんとせしを、百川憂へ嘆きしかども力も及ばざりしに、道鏡、御門の御心をいよいよゆかし奉らんとて、思ひかけぬ物を奉れたりしに、浅ましき事出で来て、奈良の京へ帰らせおはしまして、様々の御薬どもありしかども、その験さらに見えざりしに、ある尼の一人出で来たりて、いみじき事どもを申して、「安く怠り給ひなん」と申ししに、百川怒りて追ひ出してき。御門終にこの事にて八月四日亡せさせ給ひにき。細かに申さば恐れも侍らん。この事は百川の伝にも、細かに書きたると承る。この御門、只人にはおはしまさざりしにこそ。かやうの事も世の末を戒めんが為にやおはしましけんとぞ思え侍りし。
清麻呂(和気清麻呂)は悲しみながら、輿に乗って宇佐宮(現大分県宇佐市にある宇佐神宮)へ参りましたが、猪が三万匹ほども出て来て、道の左右に連なって十里ばかりも続き、山の中へ走り入りました。こうして清麻呂は宇佐神宮に着いて参拝すると、前と同じく八幡大菩薩が姿を顕わしました。八幡大菩薩は清麻呂に託宣して、神封([律令制で,神社に与えられた封戸=俸禄])の綿八万屯あまりを与えました。同じ神護景雲四年(770) の三月十五日に、称徳天皇(第四十八代天皇)は由義宮(現大阪府八尾市にあったとされる離宮)に行幸されました。道鏡は日に添えて称徳天皇に重用されて、世の中はすでに失せようとしていました、百川(藤原百川)は嘆き悲しみましたがどうしようもありませんでした、道鏡は、称徳天皇の心をますます惹こうと、思いもしないような品々を献上しましたが、称徳天皇は病いを患われて、奈良の京へ戻られて、様々の薬を試しましたが、その効き目があるようにも見えませんでした、ある尼が一人やって来て、いいことばかり申して、「称徳天皇の病いはたちまち治るでしょう」と申したので、百川は怒って追い出しました。称徳天皇は終にこの病気で八月四日にお隠れになられました。細かなところを申せば畏れもあることでしょう(道鏡が送り主かどうかは知れませんが、誰かが山芋でできたバイブを称徳天皇に贈ったそうな。それが中で折れて称徳天皇は重病となりお隠れになられたとか)。このことは百川の伝にも、細かに書いてあるということです。称徳天皇は、只人ではありませんでした。称徳天皇がお隠れになられたのも世の末を戒めるためではなかったのかと思われるのです。
(続く)