この由を百川つぶさに御門に申ししかば、その巫どもを召し寄せて重ねて問はしめさせ給ひしに、各々皆落ち伏しにき。御門この事を聞こし召して涙を流し給ひて、「我、后の為にいささかも愚かなる心なかりつるに、いまこの事あり。如何にすべき事ぞ」と仰せ言ありしかば、百川申していはく「この事、世の中の人皆聞き侍りにたり。いかでかさてはおはしますべき」と申ししかば、御門「まことにいかでかはただもあらん」とのたまはせて、后の御封など皆停め給へりしかども、后さらに憚り給ふ気色なくて、ただ御門を様々の浅ましき言葉にてみだりがはしく罵り申し給ふ事よりほかになし。百川、「東宮をもしばし退け奉りて心を鎮め奉らん」と申ししかば、御門許し給ひき。百川偽りて宣命を作りて人々を催して、太政官にして宣命を読ましむ。皇后及び皇太子を放ち追ひ奉るべき由なり。この事をある人御門に申すに、御門大きに驚き給ひて、百川を召して「后なほ懲り給はず。しばし東宮を退けんとこそ申し乞ひつるに、如何にかかる事はありけるぞ」とのたまふに、百川申していはく「退くとは永く退くる名なり。母罪あり。子驕れり。まことに放ち追はんに足れる事なり」と少しも私ある気色なく、ひとへに世の為と思ひたる心、容貌に顕れて見えしかば、御門かへりて百川に怖ぢ給ひて、ともかくものたまはせずして内々に歎き悲しび給ふ事限りなかりき。これも百川の謀計にて、位に即き給へりし功労の量りもなかりしかば、ただ申すままにておはしまししなり。
このことを百川(藤原百川)が一つ残らず光仁天皇(第四十九代天皇)に申し上げると、光仁天皇は巫女たちを呼び集めて重ねて尋問したので、皆白状しました。光仁天皇はこれを聞かれて涙を流されて、「我は、后をわずかも疎かにしたことはないが、こんなことになろうとは。どうすればよいのじゃ」と申したので、百川が申すには「このことは、世の中の者は聞いて知っております。このままで済ますことはできません」と申しました、光仁天皇も「まことにこのままという訳にもいくまい」と申して、后の封([租税])など皆止めたので、井上后はさらに憚りなく、光仁天皇を様々の嘆かわしい言葉で罵倒するほかありませんでした。百川は、「東宮もしばらく廃されて改心させましょう」と申せば、光仁天皇はこれを許しました。百川はにせの宣命を作り人々を集めて、太政官([律令制における国政の最高機関])の前で宣命を読ませました。皇后および皇太子を内裏から追放する宣命でした。これをある人が光仁天皇に申し上げると、光仁天皇はたいそう驚かれて、百川を呼んで「后はまだ懲りてはおらぬぞ。しばらく東宮を内裏から追い出すとは聞いておったが、追放するとはどういうことじゃ」と申しました、百川が申すには「退くとは永遠に退くということでございます。母には罪がございます。子は思うままに振る舞いました。追放する以外に方法はございません」と少しも私情を含める様子はなく、ひとえに世のためと思う気持ちが、表情に見て取れたので、光仁天皇はかえって百川を怖じて、何も申さず内々に嘆き悲しむほかありませんでした。これも百川の謀でした、光仁天皇が帝位に即くことができた功労に比べれば余ることではなかったので、光仁天皇はただ百川が申すままにしました。
(続く)