同じき十二年に今の京の宮城を造り給ひき。同じき十三年十二月二十二日辛酉、長岡の京より今の京に遷り給ひて、賀茂の社に行幸ありき。同じき十五年に御門東寺を造り給ふ。今年、また、藤原伊勢人と云ひし人、貴船の明神の御教へにて鞍馬をば造り奉りしなり。同じき十七年三月に勅使を淡路の国へ遣はして、早良の親王の骨を迎へ奉りて大和の国八嶋の御陵に納め給ひき。この親王流され給ひて後、世の中心地起こりて人多く死に亡せしかば、御門驚き給ひて御迎へに二度まで人を奉り給ひし、皆海に入り波に漂ひて命を失ひてき。第三度に、親王の御甥の宰相五百枝を遣はしき。殊に祈り請ひて平かに行き着きて渡し奉りしなり。七月二日、田村の将軍清水の観音を造り奉り、また我が家を毀ち渡して堂に建てき。同じき十九年七月己未の日、御門「思ふところあり」とのたまひて、前東宮早良親王に尊号を奉り、崇道天皇と申す。また井上内親王を皇太后に崇め奉るべき由、仰せられき。各々おはしまさぬ後にも怨みの御心を鎮め奉らんと思し召しけるにこそ侍るめれ。
同じ延暦十二年(793)に桓武天皇(第五十代天皇)が今の平安京を造られました。同じ延暦十三年(794)の十二月二十二日辛酉、長岡京(現京都府長岡京市)より平安京に遷都されて、賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)に行幸されました。同じ延暦十五年(796)に桓武天皇が東寺を造られました。この年、また、藤原伊勢人という人が、貴船明神(現京都市左京区にある貴船神社)の教えによって鞍馬寺(現京都市左京区にある寺)を造りました。同じ延暦十七年(798)の三月に勅使を淡路国へ遣わして、早良親王(第四十九代天皇光仁天皇の第二皇子。桓武天皇の弟)の骨を迎へ奉りて大和国の八嶋御陵(現奈良県奈良市にある早良親王=崇道天皇の墓陵)に納められました。早良親王が流された後、世の中に疫病が起こり人が多く死に亡せたので、桓武天皇は驚かれてお迎へに二度まで人を遣りましたが、皆海に沈み波に漂って命を落としてしまいました。三度目に、早良親王の甥である宰相五百枝(春原五百枝)を遣わしました。祈り深くして無事行き着き帰ることができました。七月二日に、田村将軍(坂上田村麻呂)が清水寺(現京都市東山区にある寺)の観音を造り、また我が家を壊して堂を建てました(観覚寺。現奈良県高市郡高取町にある子嶋寺)。同じ延暦十九年(800)の七月己未の日に、桓武天皇は「思うところがある」と申されて、前東宮であった早良親王に尊号を贈り、崇道天皇と呼ばれました。また井上内親王((第四十五代聖武天皇の第一皇女、第四十九代光仁天皇皇后)を皇太后にされるよう、命じられました。各々亡くなられた後のことでしたが怨みの心を鎮められようと思われたのでしょう。
(続く)