先つ頃、雲林院の菩提講に詣でて侍りしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗行き会ひて、同じ所に居ぬまり。「あはれに、同じやうなる者の様かな」と見侍りしに、これらうち笑ひ、見交はして言ふやう、世継『年来、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえ合はせむ、このただ今の入道殿下の御有様をも申し合はせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心安く黄泉路も罷るべき。思しきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人は物言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れ侍りけめと思え侍り。返す返すうれしく対面したるかな。さてもいくつにかなり給ひぬる』と言へば、いま一人の翁、繁樹『いくつと言ふこと、さらに思え侍らず。ただし、おのれは、故太政の大臣貞信公、蔵人の少将と申しし折の小舎人童、大犬丸ぞかし。主は、その御時の母后の宮の御方の召使ひ、高名の大宅世継とぞ言ひ侍りしかしな。されば、主の御年は、おのれにはこよなく増さり給へらむかし。みづからが小童にてありし時、主は二十五六ばかりの男にてこそはいませしか』と言ふめれば、世継、『しかしか、さ侍りしことなり。さても主の御名はいかにぞや』と言ふめれば、繁樹『太政大臣殿にて元服つかまつりし時、「きむぢが姓はなにぞ」と仰せられしかば、「夏山となむ申す」と申ししを、やがて、繁樹となむ付けさせ給へりし』など言ふに、いと浅ましうなりぬ。
先頃、雲林院(現京都市北区にある寺)の菩提講([極楽往生を求めて、法華経を講説する法会])に詣でますと、普通の人よりはたいそう年老いて、異様にも思えるほどの老人が二人、この嫗と同じように参られて、ご一緒したのでございます。「かなりのお年でございましょう、二人の老人は同じほどのお年かしら」と見ておりますと、老人たちは互いにうれしそうに笑って、顔を見合わせて申すには、世継『長年、昔の人に対面して、あれやこれや世の中で見聞いたことを話し合いたい、このただ今の入道殿下(藤原道長)の話もしてみたいと思うておったが、なんとうれしいことにここで会おうとは。これで思い残すこともなく黄泉路([冥土])に旅立つこともできるというものじゃ。思うところを申さずば、腹に溜まるような気がしておったんじゃ。だから、昔の人は申したいことがあれば、穴を掘ってでも申せと言うたんじゃろうよ。何にせよなんともうれしい対面をしたものよ。さていくつになられた』と訊ねると、もう一人の老人は、繁樹『さあいくつになるんじゃろ、まったく分からぬ。ただ、わしは、故太政大臣貞信公(藤原忠平)が、蔵人少将と申された時(895?)には小舎人童([近衛中将・少将が召し使った少年])で、大犬丸と呼ばれておった者じゃ。お主は、その御時の(第五十九代宇多天皇の)母后の宮(班子女王。第五十代桓武天皇の第十二皇子、仲野親王の娘)の御方の召使いとして、名高く大宅世継と申しておられたのではなかったか。ならば、お主の年は、わしよりずっと上のはずじゃがのう。わしが小童であった頃、お主はすでに二十五六ばかりの男であったはずじゃ』と申したので、世継も、『そうじゃったか、たしかにわしは母后の宮の召使いをしておった。さてお主は名を何と申す』と訊ねると、繁樹は『太政大臣殿(忠平)の許で元服した時、「お前の姓は何と申す」と申されたので、「夏山と申します」と答えたが、やがて、繁樹と名を付けてくださったんじゃ』などと言うのを聞いて、たいそう不思議なことを申されるものと思っておりました。
(続く)