京方、能登の守・平九郎判官・下総の前司・少輔入道、所々の軍に打ち負けて都に帰り入る。山田の次郎も同じく京へ入る。同じき十五日卯の刻に、四辻殿に参りて「秀康・胤義・盛綱・重忠こそ、最後の御供仕り候はんとて参りて候へ」と申しければ、一院、如何になるべき身とも思し召されぬところへ、四人参りたれば、いよいよ騒がせ給ひて、「我は武士向かはば、手を合はせて命ばかりをば乞はんと思し召せども、汝ら参り籠りて防ぎ戦ふならば、中々悪しかりなん。いづ方へも落ち行き候へ。さしもの奉公、空しくなしつるこそ不便なれども、今は力及ばず。御所の近隣にあるべからず」と仰せ出だされければ、各々の心の内言ふも中々愚かなり。
京方は、能登守(藤原秀康)・平九郎判官(三浦胤義)・下総前司(小野盛綱=成田盛綱)・少輔入道(大江親広)が、所々の軍に打ち負けて都に帰り入りました。山田次郎(山田重忠)も同じく京に入りました。同じ六月十五日の卯の刻([午前六時頃])に、四辻殿(一条万里小路にあった御所)に参って「秀康(藤原秀康)・胤義(三浦胤義)・盛綱(小野盛綱)・重忠(山田重忠)が、最後のお供を仕るために参りました」と申せば、一院(後鳥羽院)は、我が身がどうなることかとも分からないところへ、四人が参ったので、ますます騒いで、「わたしは武士が向かって来た時は、手を合わせて命ばかりは助けてもらおうと思っているのだ、お前たちがここへ参って敵を防ぎ戦えば、それも叶わないだろう。お前たちはどこへでも落ち行け。これまでの奉公が、空しくなるのを哀れには思うが、今となっては仕方ない。御所の近くにいてはならぬ」と命じたので、それぞれの心の内は言葉にするのも愚かなことでした。
(続く)