「我右大臣に後れて、かの菩提を弔ふよりほか他事なし光季が討たれし朝より、宇治の落つる夕べまで、女の心のうたてさは、昔の誼み心にかかり、兄弟をも知らず。君の傾ぶかせ給ふをも忘れて、三代将軍の跡の亡びん事を悲しみて、『南無八幡大菩薩守らせ給へ』と、心の内に祈りて候ひし。この事、忠信の卿を助けんとて偽り申し候はば、大菩薩の御慮も恥かしかるべし。数ならぬ身の祈りに答へて、かかるべしとは思はねども、心ざしを申すばかりなり。しかるに慈悲心には、打ち絶え知らぬ人をも助け哀れむは習ひなり。如何に況やまさしき兄を助けざるべき。罪の深さはさこそ候ふらめども、これさしながら我に許すと思し召すべからず。故右大臣殿に許し奉ると思ひなして、忠信の卿の命を助けさせ給へ」と、権大夫殿・二位殿へ仰せられたりければ、「許し奉れ」とて御許し文ありけるに、八月一日遠江の国橋本にて逢ひたりければ、預かりの武士千葉介胤綱、この二位殿・義時の状を見て、許し上せ奉る。
「わたしは右大臣(源実朝。三代将軍)に先立たれて、右大臣の菩提([死後の冥福])を弔うばかりです。光季(伊賀光季)が討たれた朝より、宇治で大勢の者たちが討たれた夕べまで、女の身であることがつらく、昔の縁ばかりが気になって、兄弟のことを思い出すこともありません。君(後鳥羽院)が勢いを失われたことも忘れ、ただ三代将軍(実朝)の跡継ぎが途絶えたことだけを悲しみ、『南無八幡大菩薩よ源氏をお守りくださいませ』と、心の内で祈っております。これは、忠信卿(坊門忠信)を助けようと偽り申すつもりはありません、八幡大菩薩の慮りに恥じることになりますので。数ならぬわたくしの祈りが通じて、願いが叶うとも思いませんが、ただ我が思いばかりを祈っているのです。二位殿(北条政子)の慈悲心は、すべて見知らぬ人も助け哀れむと聞いております。どうして兄(忠信)をお助けにならないことがありましょう。罪はさぞや深いことでしょうが、これをわたくしに許すと思わないでください。故右大臣殿(実朝)に許されるとお思いになられて、忠信卿の命をお助けくださいませ」と、権大夫殿(北条義時。北条政子の弟)・二位殿(北条政子)に届けると、「許しましょう」と許し文([赦免状])を出されました、八月一日遠江国の橋本(現静岡県湖西市)で落ち合って、預かり([預かり人]=[身柄を引き受けて監視や世話をする者])の武士千葉介胤綱(千葉胤綱)は、、この二位殿・義時の状を見て、忠信を許し京に上らせました。
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続く)