この故に朝廷は年々に衰へ、武家は日々に盛んなり。これによりて代々の聖主、遠くは承久の宸襟を安めんがため、近くは朝議の陵廃を歎き思し召して、東夷を亡ぼさばやと、常に叡慮を廻されしかども、あるひは勢ひ微にして叶はず、あるひは時いまだ到らずして、黙止し給ひけるところに、時政九代の後胤、前の相摸の守平の高時入道崇鑒が代に至つて、天地命を改むべき危機ここに顕れたり。
こうして朝廷は年々衰え、武家は日々に権威を増しました。これにより代々の聖主([天皇])は、遠くは承久(承久の乱(1221))の宸襟([天子の心])を安めるため、近くは朝議が荒廃することを嘆いて、東夷(鎌倉幕府)を亡ぼそうと、常に叡慮([天子の考え])を廻されましたが、ある時は勢力わずかにして叶わず、あるいは時いまだ到らずして、静かにしておられました、時政(北条時政)より九代の後胤([子孫])、前相摸守平高時入道崇鑒(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)の代になって、入道崇鑒が天地命を覆すような危機が顕れたのでした。
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続く)