合戦の相図ありと思へて、所々の宮方鯖江の宿へ馳せ集まる由聞こへければ、「いまだ川端に控へたる御方討たすな」とて、尾張の守高経・同じき伊予の守三千余騎を卒して、国分寺の北へ打ち出でらる。両陣相去る事十余町、中に一つの川を隔てつ。この川さしもの大河にてはなけれども、時節雪消に水増して、漲る浪岸を浸しければ、互に浅瀬を窺ひ見て、いづくをか渡さましと、しばらく猶予しけるところに、船田長門の守が若党葛の新左衛門と云ふ者、川端に打ち寄せて、「この川は水だに増されば州にはかに出で来て、案内知らぬ人は、いつも誤りする川にて候ふぞ。いでその瀬踏み仕らん」と云ふままに、白蘆毛なる馬に、樫鳥威の鎧着て、三尺六寸の貝鎬の太刀を抜き、兜の真つ向に指しかざし、たぎりて落つる瀬枕に、ただ一騎馬を打ち入れて、白浪を立ててぞ泳がせける。
合戦の相図(合図)があったと思って、所々の宮方(南朝方)が鯖江宿(現福井県鯖江市)へ馳せ集まっていると聞こえたので、「いまだ川端に控ている味方を討たすな」と、尾張守高経(斯波高経。北朝方)・同じく伊予守(斯波家兼。高経の弟)は三千余騎を引き連れて、国分寺(現福井県越前市京町)の北へ打ち出でました。両陣を隔てて十町余り(約1km)、中に一つの川(日野川)を隔てていました。この川はさほどの大河ではありませんでしたが、ちょうど雪解け水で水増して、みなぎる波岸を浸して、互いに浅瀬を窺って、どこを渡ろうかと、しばらく思案しているところに、船田長門守(船田善昌)の若党([若い侍])で葛新左衛門という者が、川端に打ち寄せて、「この川は水が増されば州がにわかに出来て、よく知らぬ人は、いつも間違いする川でございます。わたしが瀬踏みいたしましょう」と言って、白蘆毛の馬に、樫鳥威([樫鳥=カケス。の羽のような模様で、黒・白・藍などの 組糸を使い石畳状に威したもの])の鎧を着て、三尺六寸の貝鎬([刀剣のしのぎ=刃と峰との間に刀身を貫いて走る稜線。が角立たないで、普通よりは少し丸みのあるもの])の太刀を抜き、兜の真つ向に指しかざし、たぎり落ちる瀬枕に、ただ一騎馬を打ち入れて、白浪を立てて泳がせました。
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続く)