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「太平記」船上合戦事(その4)

主上隠岐おきの国より還幸くわんかうなつて、ふなうへに御座ありと聞こへしかば、国々のつはものどもの馳せ参る事引きも不切。先づ一番に出雲の守護塩谷えんや判官高貞たかさだ富士名ふじなの判官と打ち連れ、千余騎にて馳せ参る。その後浅山あさやま二郎八百はつぴやく余騎、金持かなぢ一党いつたう三百余騎、大山だいせんの衆徒七百余騎、すべて出雲・伯耆・因幡、三箇国の間に、弓矢にたづさはるほどの武士どもの参らぬ者はなかりけり。これのみならず、石見いはみの国にはさは三角みすみの一族、安芸の国に熊谷くまがえ小早河こばいかは美作みまさかの国には菅家くわんけの一族・江見・方賀はが・渋谷・南三郷みなみさんがう、備後の国に江田えた・広沢・宮・三吉みよし、備中に新見にひみ成合なりあひ・那須・三村・小坂・河村・しやう・真壁、備前に今木いまぎ大富おほどみの太郎幸範よしのり・和田備後の二郎範長のりなが知間ちまの二郎親経ちかつね・藤井・射越いのこし五郎左衛門範貞のりさだ・小嶋・中吉なかぎり・美濃のごんの介・和気わけの弥次郎季経すゑつね石生おしこ彦三郎、このほか四国九州のつはものまでも聞き伝へ聞き伝へ、我先にと馳せ参りける間、その勢船の上山うへやま居余ゐあまりて、四方しはうの麓二三里は、木の下・草の陰までも、人ならずと言ふ所はなかりけり。




主上(第九十六代後醍醐天皇)は隠岐国より移られて、船上山(現鳥取県東伯とうはく郡)におられると聞こえたので、国々の兵たちは絶え間なく馳せ参りました。まず一番には出雲守護塩谷判官高貞(塩冶えんや高貞)が、富士名判官(富士名義綱よしつな。塩冶氏の一族)と連れ立って、一千騎余りで馳せ参りました。その後浅山二郎(浅山義基よしもと)が八百騎余り、金持の一党(金持党。藤原姓)が三百騎余り、大山寺(現鳥取県西伯さいはく郡)の衆徒([僧])が七百騎余り、すべて出雲(現島根県の東半部)・伯耆(現鳥取県中・西部)・因幡(現鳥取県東半部)、三箇国の中で、弓矢に携わるほどの武士で参らない者はいませんでした。こればかりでなく、石見国(現島根県西半部)からは沢・三角の一族、安芸国(現広島県西半部)は熊谷・小早河、美作国(現岡山県北東部)からは菅家(菅原氏)の一族・江見・方賀・渋谷・南三郷、備後国(現広島県東部)からは江田・広沢・宮・三吉、備中国(現岡山県西部)からは新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前国(現岡山県南東部)からは今木・大富太郎幸範(大富幸範)・和田備後二郎範長(和田範長)・知間二郎親経(知間親経)・藤井・射越五郎左衛門範貞(射越範貞)・小嶋・中吉・美濃権介・和気弥次郎季経(和気季経)・石生彦三郎、このほか四国九州の兵までもが聞き伝えて、我先にと馳せ参ったので、その勢は船上山に余って、四方の麓二三里は、木の下・草の陰までも、人がいない場所はありませんでした。


続く


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by santalab | 2014-06-06 07:56 | 太平記 | Comments(0)

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