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「太平記」将軍筑紫御開の事(その1)

建武三年二月八日、尊氏たかうぢきやう兵庫を落ち給ひしまでは、相従ふ兵わづか七千余騎ありしかども、備前の児島に着き給ひける時、京都より討つ手馳せ下らば、三石みついし返にて支へよとて、尾張をはり左衛門さゑもんすけ氏頼うぢよりを、田井たゐ飽浦あくら・松田・内藤に付けて留められ、細川ほそかはきやうの律師定禅ぢやうぜん・同じく刑部ぎやうぶ大輔たいふ義篤よしあつをば、東国の事無心元とて返さる。その外の勢どもは、各々いとままうして己が国々に留まりける間、今はかう・上杉・仁木につき・畠山・吉良・石塔いしたふの人々、武蔵・相摸勢の外は相従ふ兵もなかりけり。筑前の国多々良浜たたらばまみなとに着き給ひける日は、その勢わづかに五百人にも足らず、矢種やだねは皆打出うちで瀬川せがはの合戦に射尽くし、馬・物の具はことごとく兵庫西宮の渡海とかいに脱ぎ捨てぬ。気疲れ勢尽きぬれば、轍魚てつぎよの泥に息付き、窮鳥きゆうてうの懐に入るらん風情して、知らぬ里に宿を問ひ、馴れぬ人に身を寄すれば、朝の食飢渇きかつして夜の寝醒め蒼々さうさうたり。いつの日か誰と言はん敵の手に懸かりてか、たましひ浮かれ、骨空しうして、天涯望郷てんがいばうきやうの鬼とならんずらんと、明日の命をも頼まれねば味気あぢきなく思はぬ人もなかりけり。




建武三年(1336)二月八日、尊氏卿(足利尊氏)が兵庫を落ちる時には、従う兵はわずかに七千騎余りでした、備前児嶋(現岡山県倉敷市)も着いた時、京都より討っ手が馳せ下れば、三石(現岡山県備前市三石)あたりで防げと、尾張左衛門佐氏頼(六角氏頼)を、田井(田井信高のぶたか)・飽浦(飽浦信胤のぶたね)・松田・内藤に付けて留め置き、細川卿律師定禅(細川定禅)・同じく刑部大輔義篤(佐竹義篤)は、東国が心配だと言って返しました。そのほかの勢たちは、それぞれ別れを告げて己の国々に留まったので、今は高・上杉・仁木・畠山・吉良・石塔の者たち、武蔵・相摸勢のほかに従い付く兵はいなくなりました。尊氏が筑前国多々良浜(現福岡市東区)の湊に着いた日には、その勢はわずかに五百人にも足らず、矢種は皆打出(現兵庫県芦屋市)・瀬川(現大阪府箕面市)の合戦で射尽くし、馬・物の具([武具])はすべて脱ぎ捨てました。疲れていた上勢も失って、轍魚([わだちにたまった水の中でもがく魚])が泥水で息を継ぎ、窮鳥([追いつめられて逃げ場を失った鳥])が懐へ入るような体で、見知らぬ里に宿を訪ね、馴れない人の許に身を寄せたので、朝の食事も欠乏し夜の寝醒めも早くなりました。いつの日にか誰とも知れない敵の手にかかって、魂は体から離れ、骨を空しく晒して、天涯望郷(故郷を遠くはなれてなつかしく思い遣ること)の鬼となるのではないかと、明日の命も頼みにならず生きる甲斐もないと思わない者はいませんでした。


続く
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by santalab | 2014-06-06 19:50 | 太平記 | Comments(0)

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