妙法院と大塔の宮とは、その夜までなほ八王子に御坐ありけるが、かくては悪しかりぬべしと、ひとまども落ち延びて、君の御行末をも承らばやと思し召されければ、二十九日の夜半ばかりに、八王子に篝火を数多所に焚いて、いまだ大勢籠もりたる由を見せ、戸津の浜より小舟に召され、落ち止まるところの衆徒三百人ばかりを被召具て、先づ石山へ落ちさせ給ふ。ここにて両門主一所へ落ちさせ給はん事は、計略遠からぬに似たる上、妙法院は御行歩も甲斐甲斐しからねば、ただしばらくこの辺に御座あるべしとて、石山より二人引き別れさせ給ひて、妙法院は笠置へ越えさせ給へば、大塔の宮は十津川の奥へと心ざして、先づ南都の方へぞ落ちさせ給ひける。
妙法院(宗良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)と大塔の宮(護良親王。後醍醐天皇の皇子)は、その夜までなお八王子(八王子山。現滋賀県大津市にある日吉大社境内)におられましたが、こうなってはよいことはないと、一旦は落ち延びて、君の行末も聞きたいと思われて、二十九日の夜半ばかりに、八王子に篝火を多数に焚いて、まだ大勢籠もっているように見せかけ、戸津の浜(現滋賀県大津市)より小舟に乗られ、落ち止まるところの衆徒([僧])三百人ばかりを連れられて、まず石山(現滋賀県大津市にある石山寺)へ落ちられました。ここに両門主(宗良親王は天台座主、護良親王は梶井門跡)が一所へ落ちられることは、計略としてよろしくない上に、妙法院は行歩も満足でなく、ただしばらくこの辺におられることになり、石山寺より二人は引き別れられて、妙法院は笠置城(現京都府相楽郡笠置町にあった山城)へ越えられて、大塔の宮(護良親王)は十津川(現奈良県吉野郡十津川村)の奥へと心ざして、まず南都(奈良)の方へ落ちられました。
(
続く)