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「太平記」主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事(その5)

強秦きやうしん亡びて後、項羽かううと漢の高祖かうそと国を争ふ事八箇年、いくさを挑む事七十余箇度なり。その戦ひの度毎に、項羽常に勝つに乗つて、高祖はなはだ苦しめる事多し。ある時高祖滎陽城けいやうじやうに籠もる。項羽つはものを以つてじやうを囲む事数百重すひやくへなり。日を経て城中じやうちゆうかて尽きて兵疲れければ、高祖戦はんとするに力なく、遁れんとするに道なし。ここに高祖の臣に紀信きしんと云ひける兵、高祖に向かつてまうしけるは、「項羽今城を囲みぬる事数百重、漢すでに粮尽きて士卒しそつまた疲れたり。もし兵を出だして戦はば、漢必ず楚の為にとりことならん。ただ敵をあざむいて密かに城を逃れ出でんにはしかじ。願はくは臣今漢王かんわういみなをかして楚の陣にかうせん。楚ここに囲みを解いて臣を得ば、漢王すみやかに城を出でて重ねて大軍を起こし、かへつて楚を亡ぼし給へ」と申しければ、紀信がたちまちに楚に降つて殺されん事悲しけれども、高祖社稷しやしよくの為に身を軽くすべきにあらざれば、力無く涙ををさへ、別れを慕ひながら紀信がはかりごとに随ひ給ふ。




昔強秦が亡びた後、楚の項羽と漢の高祖(劉邦)が国を争う事八箇年、戦を挑む事七十余箇度に及びました。その戦いの度毎に、項羽は常に勝つに乗って、高祖はなはだ苦しむことばかりでした。ある時高祖滎陽城(現河南省滎陽市)に籠もりました。項羽は兵を以って城を数百重に囲みました。日を経て城中の食料が尽きて兵は疲れ、高祖は戦おうとしましたがどうすることもできずに、遁れることもできませんでした。ここに高祖の臣で紀信(中国の秦末の武将。漢の劉邦に仕えた)という兵が、高祖に向かって申すには、「項羽はすでに城を数百重に渡って囲んでおります、漢はすでに食料は尽きて士卒([兵士])は疲れています。もし兵を出して戦えば、漢は必ずや楚に捕らわれてしまうでしょう。ただ敵を欺いて密かに城を逃れるほかありません。願わくはわたしが漢王の諱を賜って楚の陣に降りましょう。楚がここの囲みを解いてわたしを捕らえたら、漢王(劉邦)はすみやかに城を出て再び大軍を起こし、楚を亡ぼしてください」と申すと、劉邦は紀信がたちまちにして楚に降って殺されることが悲しいて、けれども高祖は社稷([国家])のために身を軽んじることはできませんでした、仕方なく涙を抑えて、別れを惜しみながら紀信の謀略に同意しました。


続く
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by santalab | 2014-06-08 22:25 | 太平記 | Comments(0)

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