元暦元年の頃かとよ、重衡の中将の、東夷の為に囚れて、この宿に着き給ひしに、
「東路の 埴生の小屋の いぶせきに 古郷いかに 恋ひしかるらん」
と、
長者の娘が詠みたりし、その
古の
哀れまでも、思ひ残さぬ
泪なり。
旅館の
燈かすかにして、
鶏鳴暁を
催せば、
疋馬風に
嘶へて、天竜川を打ち渡り、
小夜の中山越え行けば、
白雲路を
埋み来て、そことも知らぬ夕暮れに、
家郷の
天を臨みても、昔
西行法師が、「命なりけり」と
詠じつつ、再び越えし跡までも、羨ましくぞ思はれける。
元暦元年(1184)の頃でしたか、重衡中将(平重衡。平清盛の五男)が、東夷([東国武士])に捕らわれて、池田宿(現静岡県磐田市)に着いた時、
「旅の途中、埴生の小屋([土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋])に入られて、あまりのむさ苦しさに、故郷(京)を、どれほど恋しく思い出されていることでしょう。」
と、長者の娘(熊野の娘)が詠んだ、その昔の哀れまでもが、重なる涙でした。旅館の燈はわずかで、鶏鳴が暁を知らせて、馬は風にいなないて、天竜川(現静岡県浜松市・磐田市境をなす川)を打ち渡り、小夜の中山(現静岡県掛川市にある峠)を越え行けば、白雲が路を埋めて、そことも知らぬ夕暮れに、家郷([故郷])の空を眺めては、昔西行法師が、「命なりけり」(「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり小夜の中山」=「年をとって再び越えることがあるとも思わなかった。この小夜の中山を越えることができるのも命あってのものだなぁ」)と詠みながら、再び越えたことまでもが、羨ましく思われるのでした。
(
続く)