Santa Lab's Blog


「太平記」新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事(その3)

細川相摸のかみは、今度南方の合戦の時、仁木につき右京うきやうの大夫、三河の星野行明ぎやうみやうらが、守護の手にしよくせずして、相摸の守の手に付きたる事を怒つて、彼らが跡を闕所けつしよに成つて家人けにんどもに宛て行なはれたりしを、所存に違つて思はれける人なり。土岐大膳だいぜんの大夫入道にふだう善忠ぜんちゆうは、故土岐頼遠よりとほが子左馬の助を仁木が養子にして、ややもすれば善忠が所領を取つて左馬の助にまうし与へんとするを、鬱憤する折節をりふしなり。佐々木の六角判官はうぐわん入道にふだう崇永そうえいは、多年御敵なりし高山を討つてその跡をたまはりたるを、仁木建武の合戦に恩賞に申し賜りたりし所なりとて、押さへて知行せんとするを、
遺恨ゐこんに思ふ人なり。佐渡判官入道は、我が身に取つて仁木に差したる宿意はなけれども、余りに傍若無人なる振る舞ひを、狼藉らうぜきなりと目にかけける時なり。今川・細川・土岐・佐々木、皆義長よしながを憎しと思ふ人どもなりければ、いづれも不及異儀、「ただこのついでに討ちて、世をしづむるより外の事は候はじ」と、面々にぞ被同ける。さらばやがて合戦評定可有とて、人々の下人どもを遠く退けたるところに、推参すゐさんの遁世者・田楽童でんがくわらはなんど数多あまた出で来けるほどに、諸人皆目加めくはせして、その日は酒宴にて止みにけり。




細川相摸守(細川清氏きようぢ)は、今度の南朝との合戦の時に、仁木右京大夫(仁木義長よしなが)、三河の星野行明たちが、守護(義長)の手に付かず、相摸守(細川清氏)の手に付いたことに怒って、彼らの跡(領地)を闕所([知行人のいない土地])にして家人([家来])たちに分け与えたことを、とんでもないことと思っていたのでした。土岐大膳入道善忠(土岐頼康よりやす)は、故土岐頼遠(土岐頼康の叔父)の子左馬助を仁木(義長)が養子にして、もしかすると善忠の所領を取り上げて左馬助に譲り渡すのではないかと、恨みを抱いていたのでした。佐々木六角判官入道崇永(六角氏頼うぢより)は、長年敵であった高山を討ってその跡を賜りましたが、仁木(義長)が建武の合戦で恩賞として賜った所であると、手放さず知行したので、遺恨に思っていました。佐渡判官入道(佐々木道誉だうよ)は、自身は仁木(義長)にさほどの宿意はありませんでしたが、あまりに傍若無人な振る舞いを、狼藉([無法な荒々しい振る舞い])だと目にかけていました。今川(範国のりくに)・細川(清氏)・土岐(頼康)・佐々木(六角氏頼)は、皆義長を憎んでいたので、誰も異議をはさまず、「ただこの機会に義長を討って、世を鎮めるほかあるまい」と、面々に同意しました。ならばすぐに合戦の評定([皆で相談して決めること])をしようではないかと、者たちの下人([身分の低い者])たちを遠ざけましたが、推参([自分のほうから出かけて行くこと])の遁世者([俗世をのがれて仏門に入った者])・田楽童([田楽=初め民間の農耕芸能から出て、平安時代に遊芸化された芸能。を舞う童子])などが数多くやって来たので、者たちは皆目配せして、その日は酒宴が行われただけでした。


[PR]
by santalab | 2014-06-10 07:54 | 太平記 | Comments(0)

<< 「太平記」義貞夢想の事付諸葛孔...      「太平記」新将軍帰洛の事付擬討... >>

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
さらに付け加えますと、こ..
by 八島 守 at 09:03
おそらく「国民文庫」だと..
by santalab at 21:09
こんにちは。今日はSan..
by 佐藤綾乃 at 18:44
返歌 草枕…に因んで短歌..
by 井上勇 at 23:54
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧