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「太平記」大塔宮熊野落の事(その3)

かくては南都辺の御隠れ家しばらくも難叶ければ、すなはち般若寺を御出でありて、熊野の方へぞ落ちさせ給ひける。御供のしゆには、光林房玄尊くわうりんばうげんそん・赤松律師則祐そくいう木寺こでら/rt>の相模・岡本をかもとの三河房・武蔵房むさしばう・村上彦四郎・片岡八郎・矢田やだ彦七・平賀の三郎、かれこれ以上九人なり。宮を始め奉りて、御供の者までも皆柿の衣におひを掛け、頭巾とうきん眉半ばに責め、その中に年長としちやうぜるを先達せんだちに作り立て、田舎山伏ゐなかやまぶしの熊野参詣するていにぞ見せたりける。この君元より龍楼鳳闕りようろうほうけつの内にひととならせ給ひて、華軒香車くわけんかうしやの外を出でさせ給はぬ御事なれば、御歩行ほかう長途ちやうどは定めて叶はせ給はじと、御伴の人々兼ねては心苦しく思ひけるに、案に相違さうゐして、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる足袋たび脛巾はばき草鞋わらぢを召して、少しもくたびれたる御気色きしよくもなく、社々やしろやしろの奉弊、宿々やどやどの御勤め怠らせ給はざりければ、路次ろしに行き逢ひける道者だうしやも、勤修ごんじゆを積める先達も見咎むる事もなかりけり。




この場に及んではは南都辺(奈良)に隠れていることは叶わず、すぐに般若寺(現奈良県奈良市にある寺)を出られて、熊野の方へ落ちて行きました。供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐(赤松則祐)・木寺相模(木寺勝憲しようけん)・岡本三河房(岡本祐次?)・武蔵房・村上彦四郎(村上義光よしてる)・片岡八郎(片岡利一)・矢田彦七・平賀三郎(平賀国綱くにつな)、以上九人でした。大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)をはじめ、供の者までも皆柿の衣([山伏の着る,柿の渋で染めた衣])に笈([修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱])を負い、頭巾([修験道の山伏がかぶる小さな布製のずきん])を眉半ばまで深くかぶり、その中に年長の者を先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])に仕立てて、田舎山伏が熊野参詣しているように装いました。大塔の宮は龍楼鳳闕([皇太子が住む宮城・皇居])で元服され、華軒香車([はなやかに飾った貴人の車と立派な車])から出られることはなかったので、長い道のりを歩かれるのは無理ではないかと、伴の人々は心苦しく思っていましたが、まったく違って、いつ習われたことでもありませんでしたが粗末な足袋・脛巾([旅行や作業などの際、すねに巻きつけてひもで結び、動きやすくしたもの])・草鞋を履いて、少しもくたびれた表情もせず、社々の奉弊、宿々の勤めを怠ることもなく、路次に行き逢う道者も、勤修([修行])を積んだ先達も怪しむことはありませんでした。


続く
by santalab | 2014-06-15 18:36 | 太平記

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