かくては南都辺の御隠れ家しばらくも難叶ければ、すなはち般若寺を御出でありて、熊野の方へぞ落ちさせ給ひける。御供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐・木寺の相模・岡本の三河房・武蔵房・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀の三郎、かれこれ以上九人なり。宮を始め奉りて、御供の者までも皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半ばに責め、その中に年長ぜるを先達に作り立て、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。この君元より龍楼鳳闕の内に長とならせ給ひて、華軒香車の外を出でさせ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定めて叶はせ給はじと、御伴の人々兼ねては心苦しく思ひけるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども怪しげなる足袋・脛巾・草鞋を召して、少しもくたびれたる御気色もなく、社々の奉弊、宿々の御勤め怠らせ給はざりければ、路次に行き逢ひける道者も、勤修を積める先達も見咎むる事もなかりけり。
この場に及んではは南都辺(奈良)に隠れていることは叶わず、すぐに般若寺(現奈良県奈良市にある寺)を出られて、熊野の方へ落ちて行きました。供の衆には、光林房玄尊・赤松律師則祐(赤松則祐)・木寺相模(木寺勝憲)・岡本三河房(岡本祐次?)・武蔵房・村上彦四郎(村上義光)・片岡八郎(片岡利一)・矢田彦七・平賀三郎(平賀国綱)、以上九人でした。大塔の宮(護良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)をはじめ、供の者までも皆柿の衣([山伏の着る,柿の渋で染めた衣])に笈([修験者などが仏具・衣服・食器などを収めて背に負う箱])を負い、頭巾([修験道の山伏がかぶる小さな布製のずきん])を眉半ばまで深くかぶり、その中に年長の者を先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])に仕立てて、田舎山伏が熊野参詣しているように装いました。大塔の宮は龍楼鳳闕([皇太子が住む宮城・皇居])で元服され、華軒香車([はなやかに飾った貴人の車と立派な車])から出られることはなかったので、長い道のりを歩かれるのは無理ではないかと、伴の人々は心苦しく思っていましたが、まったく違って、いつ習われたことでもありませんでしたが粗末な足袋・脛巾([旅行や作業などの際、すねに巻きつけてひもで結び、動きやすくしたもの])・草鞋を履いて、少しもくたびれた表情もせず、社々の奉弊、宿々の勤めを怠ることもなく、路次に行き逢う道者も、勤修([修行])を積んだ先達も怪しむことはありませんでした。
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続く)