Santa Lab's Blog


「太平記」大塔宮熊野落の事(その9)

その時宮、木寺こでらの相模にきと御目くはせありければ、相模この兵衛がそば居寄ゐよりて、「今は何をか隠し可申、あの先達せんだち御房ごばうこそ、大塔おほたふの宮にて御坐あれ」と云ひければ、この兵衛なほも不審気ふしんげにて、かれこれの顔をつくづくとまぼりけるに、片岡八郎・矢田やだ彦七、「あらあつや」とて、頭巾ときんを脱いで側に差し置く。まことの山伏ならねば、月代さかやきの跡隠れなし。兵衛これを見て、「げにも山伏にてはおはせざりけり。賢くぞこの事まうし出でたりける。あな浅まし、このほどの振る舞ひさこそ尾籠びろうに思し召しさふらひ/rt>ひつらん」ともつてのほかに驚いて、かうべを地に着け手をつかね、畳より下に蹲踞そんこせり。にはかに黒木くろぎの御所を造りて宮を守護し奉り、四方しはうの山々に関を据ゑ、路を切り塞いで、用心厳しくぞ見へたりける。これもなほ大儀の計略難叶とて、叔父をぢ竹原八郎入道にこの由を語りければ、入道やがて戸野とのが語らひに随つて、我が館へ宮を入れまゐらせ、無二の気色に見へければ、御心安く思し召して、ここに半年はんねんばかり御座ありけるほどに、人に被見知じと被思し召しける御支度に、御還俗げんぞくていに成らせ給ひければ、竹原八郎入道が息女そくぢよを、夜の大殿をとどへ被召て御覚え異他なり。さてこそ家主いへあるじの入道もいよいよ心ざし傾け、近辺の家主郷民がうみんどもも次第に帰伏まうしたる由にて、かへつて武家をばさみしけり。




その時大塔の宮(護良もりよし親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)は、木寺相模にきっと御目くばせしたので、木寺相模は戸野兵衛の側に近寄って、「今は何を隠し申すべき、あの先達([山伏や一般の信者が 修行のために山に入る際の指導者])の御房こそ、大塔の宮でございます」と言えば、戸野兵衛なをも半信半疑で、かれこれの顔をつくづくと見守っていました、片岡八郎・矢田彦七が、「熱いのう」と言って、頭巾([修験道の山伏がかぶる小さな布製のずきん])を脱いでそばに置きました。本当の山伏ではありませんでしたので、月代([男子が冠や烏帽子をかぶったとき、髪の生え際が見えないように額ぎわを半月形にそり上げたもの])の跡がくっきりとありました。戸野兵衛はこれを見て、「確かに山伏ではあられぬ。よくぞ本当のことを申してくださった。情けないことよ。このほどの振る舞い尾籠([愚かなさま])にもまったく思いもしませんでした」と驚いて、首を地に着け手を合わせて、畳の下に蹲踞([貴人が通行するとき、両ひざを折ってうずくまり、頭を垂れて行う礼])しました。急ぎ黒木([皮のついたままの丸太])の御所を造って大塔の宮を守護し、四方の山々に関を据え、路を切り塞いで、用心を厳しくしました。これもなお大儀の計略には不足だと、叔父の竹原八郎入道にこれを話すと、入道はすぐに戸野に従って、己の館に大塔の宮を入れて、二心ないように見えたので、大塔の宮も心安く思われて、ここに半年ばかりおられましたが、人に見知られないようにと、還俗したように装われて、竹原八郎入道の息女([娘])を、夜の大殿に召して寵愛されました。こうして家主の入道もますます心を寄せ、近辺の家主郷民も次第に帰伏([従い付くこと])するようになって、武士を軽んじるようになりました。


続く
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by santalab | 2014-06-15 21:35 | 太平記 | Comments(0)

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