宮この事を御思案あるに、直事にあらずと思し召し合はせて、年来御身を放されざりし膚の御守を御覧ずるに、その口少し開きたりける間、いよいよ怪しく思し召して、すなはち開き被御覧ければ、北野の天神の御神体を金銅にて被鋳進たるそ御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土の付きたるぞ不思議なる。「さては佳運神慮に叶へり、逆徒の退治何の疑ひか可有」とて、それより宮は、槙野上野房聖賢が拵へたる、槙野の城へ御入りありけるが、これもなほ分内狭くて可悪ると御思案ありて、吉野の大衆を語らはせ給ひて、安善宝塔を城郭に構へ、岩切通す吉野川を前に当てて、三千余騎を随へて立て籠もらせ給ひけるとぞ聞こへし。
大塔の宮(護良親王。第九十六代後醍醐天皇の皇子)はこの事を思うに、ただ事ではないと思われて、年来身から離さなかった肌のお守りを見れば、お守りの口が少し開いていたので、ますます不思議に思われて、すぐにお守りを開けて見ると、北野天神のご神体を金銅で鋳た眷属([神の使者])である、老松明神のご神体が、遍身([全身])より汗をかいて、足には土がついていましたが不思議なことでした。「さては佳運([幸運])なことに神慮([神のおぼしめし])により、逆徒を退治することができたに違いない」と思って、その後大塔の宮は、槙野上野房聖賢が造った、槙野城に入りましたが、ここもなお手狭でよくないと思われて、吉野の大衆([僧])を味方に付けて、安善宝塔(高野山にあった安禅寺蔵王堂)を城郭として、岩切通す吉野川を前にして、三千余騎を従えて立て籠もられたということです。
(続く)