そもそも、薬を得て、服せずして死せんの事、崑崙山に行きて、玉を取らずして帰り、栴檀の林に入りて、梢を待たずして果てなば、後悔するとも、由なし。その上、五劫思惟、兆載永劫の万善万行、諸波羅蜜の功徳を三字に納め給へり。しかれば、『阿字十方三世仏、弥字一切諸菩薩、陀字八万諸聖教』と言ふ時は、八万教法、諸仏菩薩も、名号たひないの功徳となれり。しかれば、天台には、法報応の三身、空仮中の三諦なりと釈しましまし候ふ。森羅万象、山河大地、弥陀に漏れたる事なし。これに依りて、ただ専ら弥陀を以つて、法門の主とすと釈し給へり。
そもそも、薬を得て、服用することなく死ぬこと、崑崙山(中国古代の伝説上の山岳。中国の西方にあり、黄河の源で、玉を産出し、仙女の西王母がいるらしい)に行き、玉を取らずに帰り、栴檀の林に入り、梢を待つ(持つ?)ことなく果てたなら、後悔したところで、仕方のないことです。その上、五劫思惟([阿弥陀仏が四十八願をたてる以前に、その誓いについて五劫もの長い間考え続けたこと])、兆載永劫([たいそうながい時間])をかけて万善万行([ありとあらゆる善と行])、諸波羅蜜([仏教で最も深奥の修行])の功徳を三字(阿弥陀)に納められたのです。そういうことですから、『阿字は十方三世仏、弥字は一切諸菩薩、陀字は八万諸聖教を顕しています』の名を、八万教法([釈迦の説いた教え])、諸仏菩薩も、名号たひないの功徳(大宝海の功徳?[功徳]=[現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行。善根])と呼んでいるのです。しかれば、天台宗では、法報応の三身([仏に具わる三身、法身如来、報身 如来、応身如来])を、空仮中の三諦([三つの真理。この世の事物はすべて実体ではないとする空諦、すべて縁起によって生じた現象であるとする仮諦、すべては空・仮を超えた絶対的真実であるとする中諦])であると、解釈します。森羅万象、山河大地も、阿弥陀の慈悲を受けないものはありません。この道理により、ただひたすらに弥陀の名を唱えることを、法門([法門])の第一とすると説くのです。
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続く)