次に、和田の左衛門義盛、御前に畏まり、「景時が親子、申して叶はざるところを、義盛、重ねて申し上ぐる条、かつうは、その恐れ少なからず候へども、人を助くる習ひ、さのみこそ候へ。義盛、御大事に罷り立ちて、度々なりと雖も、分きては、衣笠の城にて、御命に代はり奉り、御世に出でさせ給ひ候ひぬ。その忠節に申し代へて、曽我の子どもを預かり置き候はば、生前の御恩と存じ候ふべし」と申されければ、君聞こし召されて、「かの者どもの事は、斬らで適ふべからず」と仰せ下されければ、義盛、重ねて申されける、「もとより、罪軽くして、追罰せらるべきを、申し預かりては、御恩と申し難し。重罪の者を賜はりてこそ、掟を背く御恩にては候へ。義盛が一期の大事、何事かこれにしかん」と、差し切りて申されたりしかば、君も、まことに難儀に思し召しけるが、しばし、御思案に及び、「御分の所望、何をか背き奉るべき。しかれども、この事においては、頼朝に差し置き給へ。伊東が情けなかりし振る舞ひ、ただ今報ぜん」と仰せられければ、義盛、力に及ばずして、御前を罷り立たれけり。
次に、和田左衛門義盛(和田義盛)が、頼朝の御前に畏まり、「景時親子(梶原景時・景季)が、申し上げて叶わぬところを、この義盛が、重ねて申し上げること、一方、その恐れ少なくありませんが、人を助けることが、務めであると思っておりますれば。この義盛、君の大事に立ち出て、度々に及ぶといえども、とりわけ、衣笠城の合戦(1180年に、現神奈川県横須賀市衣笠町にあった衣笠城で起こった秩父氏=平家方。と三浦氏=源氏方。の戦い)で、君の御命に代わり、世に出られたのではございませんか。その忠節に申し代えて、曽我(曽我祐信)の子どもを預かり置かれるなら、生前のご恩と存じます」と申せば、君(源頼朝)はこれを聞いて、「かの者どものことだが、斬らぬ訳には行かぬ」と申したので、義盛が、重ねて申すには、「もとより、罪を軽くして、追罰にも及ぶ者を、申し預かって、ご恩とも申せません。重罪の者を賜わってこそ、掟を背いてのご恩ではございませんか。義盛の一期の大事、このほかにございません」と、詰め寄って申せば、君(頼朝)も、困った様子でしたが、しばらく考えて、「お主の望むところに、背くことはできぬ。けれども、こればかりは、この頼朝に任せよ。伊東(伊東祐親)の情けのない振る舞いに、ただ今報いるためだ」と申したので、義盛も、仕方なく、御前を立ちました。
(続く)