太宰ではありませんが「愛していた」の一言を省くことはできるはずもなく、ならば「どうして?」って人は占い師でも思い通りに世の中を変えることができる魔術師でもありませんから、それが叶えられるかどうかは、人によっては宝くじで「一等」を当てるようなもの。ある人にとってはじゃんけんに勝つほどのことであってもね。
どうせ当たりもしない「愛」ならば、現実を超えて理想を超えて、一等百万円の宝くじなどどうでもよくて、ただ三億円。確率の小数点第何桁かの違いなどそのまんま微々たるものでしかありません。もとより確率なんて度返ししているものです。
「ただ遠くから愛していたいと思います。手が届く距離ならきっと、愛ではないとは言えなくとも、愛が形を変えた『何か』をきっと求めてしまうから。近くにあって手に触れることのできないものを拓郎は『ガラス箱』と言ったけれど、手に触れることができる距離はたかだか数十cmの範囲、テーブル向かいでさえ手を伸ばさなければ届かないもの」。究極の触れ合いを性に求めるなら、それはわずか数cmの話しでしょ。
たとえ何km離れていても変わらないものを信じていたいと今は思うのです。反面、悲しくてどうしようもないものでもあるけれど。けれど、今は距離がゼロになることだけを願うことにします。「あり得ないでしょ」。その通り、ならば何百km離れていても同じことだと思いたい。手が届く距離にこだわるのが人ならば、それ以上に付きたいと思うのが人ならば、ゼロを願うのもまた人でしょう。それ以外を否定して何が悪いとでも。