同じ二十五日、伯耆の国稲津の浦と言ふ所へ移らせ給へり。この国に、名和の又太郎長年と言ひて、怪しき民なれど、いと猛に富めるが、類広く、心も賢々しく、宗々しき者あり。かれが許へ宣旨を遣はしたるに、いと忝しと思ひて、取り敢へず、五百余騎の勢ひにて、御迎へに参れり。またの日、賀茂の社と言ふ所に立ち入らせ給ふ。都の御社思し出でられて、いと頼もし。それより船上寺と言ふ所へおはしまさせて、九重の宮に準ふ。これよりぞ、国々の兵どもに、御敵を滅ぼすべき由の宣旨遣はしける。比叡の山へも上せられけり。
同じ二月二十五日に、後醍醐院(第九十六代天皇)は伯耆国の稲津の浦と言う所に移されました。この国に、名和又太郎長年(名和長年)と申す、身分は定かではありませんでしたが、とても勇敢で、一族は多く、賢くて、権力を持つ者がありました。この長年の許へ宣じを宣旨を遣わすと、畏れ多いことだと、とりあえず、五百騎の勢で、後醍醐院を迎えに参りました。次の日、賀茂社(現鳥取県米子市にある賀茂神社)と申す所に入れられました。後醍醐院は都の社(現京都市にある上賀茂神社・下鴨神社)のことを思い出されて、とても頼もしく思われました。それより船上寺(船上山=現鳥取県西部、大山の北端にある山)と申す所へ移られて、九重の宮([内裏])としました。後醍醐院はここより、国々の兵たちに、敵(鎌倉幕府)を滅ぼすべしと宣旨を遣わしました。宣旨は比叡山(延暦寺)にも届けられました。
(続く)