かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころび初むる気色、常よりも異なれば、行幸あるべく思し置きつ。関白二条殿良実、この三年ばかりまた返りなり給へば、御随身ども花を折りて、行幸よりも先に参り設け給ふ。そのほかの上達部も、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船ども浮かべて、をかしき様なる童、四位の若きほど乗せて、花の木蔭より漕ぎ出でたるほど、二なく面白し。舞楽様々曲など手を尽くされけり。御遊の後、人々歌奉る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製、
尋ね来て あかぬ心に まかせなば 千とせや花の かげに過ごさん
かやうの方までも、いとめでたくおはしますとぞ、古き人々申すめりし。
こうして、弘長三年(1263)二月の頃、世も穏やかに霞み渡り、暖かい春風が吹いて、亀山殿(第八十八代後嵯峨院が小倉山東南の亀山山麓に造った離宮)の御前の桜もほころびはじめましたが、例年にもまして美しく、亀山天皇(第九十代天皇)は行幸なさることにされました。関白二条殿良実(二条良実)は、この三年ばかりまた関白であられたので、御随身([貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人])たちに花を折らせて、行幸に先立って先に参られました。そのほかの上達部も、例の如く時めく限り、都に残る人は多くございませんでした。新院(第八十九代後深草院)も両女院(洞院姞子=京極院、西園寺嬉子=今出川院)もお出かけになられました。御前の汀に船を浮かべて、かわいい童、四位の若い者たちを乗せて、花の木蔭より漕ぎ出ると、二つなく趣きがぎざいました。舞楽も様々曲など手を尽くしたものでございました。御遊の後、人々は歌を詠みました。「花と契り年を経る」という題でございましたか。内の上(亀山天皇)の御製([天皇や皇帝、また皇族が手ずから書いたり作ったりした文章・詩歌・絵画])、
はるばる亀山殿に訪ね来て知りました。飽きることのないこの花のように心を美しく保っておられる後嵯峨院(第八十八代天皇)のご意向に心を合わせれば、千年の世も、この後嵯峨院のお陰で過ごすことができましょう。
歌の道にも、たいそう通じておられたと、古い人々は申しておりました。
(続く)