日暮らし、八幡・山崎・竹田・宇治・勢多・深草・法性寺など、燃え上がる煙ども、四方の空に満ち満ちて、日の光も見えず。墨を摺りたるやうにて暮れぬ。ここにも火かかりて、いと浅ましければ、いみじう固めたりつる後ろの陣を辛うじて破りて、それより免れ出でさせ給ふ御心地ども、夢路をたどるやうなり。内の上も、いと怪しき御姿にことさらやつし奉る、いとまがまがし。両院も、御手を取り交はすと言ふばかりにて、人に助けられつつ出でさせ給ふ。上達部・大臣たちは、袴のそば取りて冠などの落ち行くも知らず、空を歩む心地して、あるは川原を西へ東へ、様々散り散りになり給ふ。両六波羅仲時・時益、東を指して東へと心がけて落ちければ、御幸も同じ様になし奉りけり。西園寺の大納言公宗は、北山へおはしにけり。右衛門督経顕・左兵衛の督隆蔭・資明の宰相などは、御幸の御供に参らる。按察の大納言資名は、足を損なひて、東山わたりに留まりぬなど言ひしは、いかがありけん。
一日戦って、八幡(現京都府八幡市)・山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)・竹田(現京都市伏見区)・宇治(現京都府宇治市)・勢多(現滋賀県大津市)・深草(現京都市伏見区)・法性寺(現京都市東山区にある寺)などで、燃え上がる煙は、四方の空に満ち満ちて、日の光も見えないほどでございました。まるで墨を摺ったようにして日が暮れたのでございます。内裏に火が及んで、とても激しく燃えておりましたので、厳重に固めた後ろの陣([兵営])をなんとか破って、それからお出になられましたが、まるで夢路を迷われるようでございましたでしょう。内裏におられた上(北朝初代光厳天皇)も、たいそうみすぼらしいお姿になられて、目も当てられない有様でございました。両院(第九十三代後伏見上皇と第九十五代花園上皇)も、手を取られつつ、人に助けられて内裏をお出になられました。上達部([公卿])・大臣たちは、袴のそばを差し挟んで冠が落ちるのも気にせず、まるで空を歩くような心地で、ある者は鴨の川原を西へ東へと、思い思い散り散りになってしまいました。両六波羅探題の仲時(北条仲時。六波羅探題北方)・時益(北条時益。六波羅探題南方)は、東を指して東国へ逃れようと思って落ちて行きましたので、御幸(光厳天皇)も同じく東に向かわれました。西園寺大納言公宗(西園寺公宗)は、北山へ行かれました。右衛門督経顕(勧修寺経顕)・左兵衛督隆蔭(四条隆蔭)・資明宰相(柳原資明)などは、御幸のお供に参りました。按察大納言資名(日野資名)は、足を痛めて、東山のあたりに留まったとお聞きしましたが、どうなられたのでしょう。
(続く)