かくて、またの年春の頃より、東二条院、御悩み日々に重り給ひて、今はと見えさせ給へば、伏見殿へ出でさせ給ひて、終に失せさせ給ひぬ。七十に余らせ給へば、理の御事なり。法皇もその御歎きの後、をさをさ物聞こし召さずなどありしを始めにて、うち続き心よからず、御わらはやみなど聞こゆるほどに、七月十六日、二条富小路殿にて、隠れさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いとあはれに悲しき事とも、言へばさらなり。御孫の春宮も一つにおはしましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇どもこぼこぼと毀ちて、崩れ出づる法師ばらの気色まで、今を限りと、閉ぢめ果つる世の有様、いと悲し。宵過ぐるほどに、六波羅の貞顕・憲時二人、御弔ひに参れり。京極面の門の前に、床子に尻かけて候ふ。従ふ者ども左右に並み居たる様、いとよそほしげなり。
こうして、次の年(嘉元二年(1304))春頃より、東二条院(西園寺公子。第八十九代後深草天皇中宮)は、病いを日々に重らせて、今を限りと思われて、伏見殿(伏見山荘)にお移りになられて、終にお隠れになられました。七十を越えておられましたので、道理ではございました。法皇(第八十九代後深草院)もお嘆きになられて、言葉数も少なくなられて、気分もすぐれず、わらわやみ([毎日または隔日に、 時を定めて発熱する病気])など聞こえておりますほどに、七月十六日、二条富小路殿(第八十九代後深草天皇の里内裏)で、お隠れになられました。六十二におなりでございました。たいそう悲しいことでございました、申すまでもございません。孫の春宮(第九十二代伏見天皇の第四皇子、富仁親王)も同じ所におられましたので、急ぎ外へ移られました(古代・中世において、 死は伝染すると信じられた)。御修法([国家または貴人が僧を呼んで密教の修法を行う法会])の壇を壊して、崩れ出る法師たちの表情までも、今を限りと、亀山院がお隠れになられた世を、悲しんだのでございます。宵が過ぎるほどに、六波羅探題の貞顕(北条貞顕)・憲時(?)の二人が、弔問に参りました。京極(京極大路=富小路)面の門のに、床子([宮中などで用いた腰掛け])に腰かけておりました。従う者どもが左右に並んだ様は、堂々としておりました。
(続く)