二の左に新兵衛、中宮内侍、後に准后と聞こえにき。尻には夏引き・いはねを。三の車に少将内侍・尾張の内侍、尻に青柳・今参りなど聞こゆ。上達部、御前の座に着きて後、御台参る。役送公泰宰相の中将、陪膳右大将兼季、そのほど、舞人跪く。地下の舞は目馴れたる事なれど、折からにや、今日は異に面もち足ぶみもめでたく見ゆ。法皇の御覚えにて、寿王と言ふ人、松殿の某とかやが子なり。落蹲など舞ふと聞きしかど、夜も深け雪も殊に掻き暗して、何の文目も見えざりき。
二の車の左には新兵衛、中宮内侍(阿野廉子)、後に准后と呼ばれたお方です。尻には夏引き・いわねお(岩根尾?)。三の車には少将内侍(菅原在仲の娘)・尾張内侍、尻には青柳・今参りなどとお聞きしました。上達部が、御前の座に着いた後に、御台([食物をのせる台])が参いました。役送([天皇の食事、大饗・節会などの膳部を陪膳に取り次ぐ役])は公泰宰相中将(洞院公泰)、陪膳([宮中で天皇に御膳を奉る時、また武家で儀式の時など、食膳に侍して給仕する人])は右大将兼季(今出川兼季)でございました、そのほど、舞人は御前に跪きました。地下([昇殿を許されない官人の総称])の舞は見慣れたものでしたが、朝覲([天皇が年の初めに太上天皇,皇太后の宮に行幸して,正月のあいさつをすること])の行幸だからでしょうか、今日はとりわけ表情足ぶみもおめでたく思われました。法皇(第九十一代後宇多院)が寵愛されておられました、寿王という人は、松殿の某とかの子でございました。落蹲([雅楽の舞楽で、二人舞の納曽利を一人で 舞うときの呼称])を舞ったとお聞きしましたが、夜も深け雪もひどく降っておりましたので、まったく見分けることはできませんでした。
(続く)