法皇は、ややもすれば、大覚寺殿にのみ籠もらせおはします。人々、世の中の事ども奏しに参り集ふ。今は一筋に御行ひにのみ御心入れ給へるに、いとうるさく思せば、その夏の頃、定房の大納言、東へ遣はさる。御門に天の下の事、譲り申さむの御消息なるべし。大方は、いと浅ましう成り果てたる世にこそあんめれ。かばかりの事は、父御門の御心にいと安く任せぬべきものをと、めざましけれど、昨日今日始まりたるにもあらず、承久よりこなたは、かくのみ成りもてきにければなんめり。内に近く候ふ上達部などの、なま腹ぎたなき、我が思ふ事のとどこほりなどするを、なほ法皇を憂はしげに思ひ奉りて、この事いかで東より許し申すわざもがなと、祈りなどをさへぞしける。
法皇(第九十一代後宇多院)は、大方、大覚寺殿(現京都市右京区にある寺)にばかり籠もられておりました。人々は、世の中の政を奏しに参り集いました。今は一筋に行いにのみ心を寄せておられたので、煩わしく思われて、その夏頃、定房大納言(吉田定房)を、東国(鎌倉幕府)に遣わせました。帝(第九十六代後醍醐天皇)に天下の政を、譲り申す旨の消息([文])でございました。このように、朝廷の権威はない世でございましたのでしょう。これほどのことは、父帝(後宇多院)の心に任せられるべきものをと、悩ましく思われましたが、昨日今日始まったことでもなく、承久(承久の乱(1221))以降は、鎌倉幕府の意向なしに政を行うことはできませんでした。内(後醍醐天皇)の近くに仕える上達部などの中にも、腹黒い者は、望みが断たれてしまうと思い、法皇がおかわいそうだと申しながらも、東国がこれを許すはずもないと、祈りなどさえする者もおりました。
(続く)