同じ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部など多くは先に同じ。衣替への下襲ども、けぢめなくすずしげなり。別当の下部、この度は十二人、褐に雉の尾を白ううち違へて付けたる、これも掲焉に好ましげなり。明くる日は祭りなれば、神館の方、うち続き華やかに面白し。今日の使ひは、徳大寺中将公清なり。春宮の大夫公賢の婿にておはすればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞ出で立たれける。人柄と言ひ、万めでたく見ゆ。萌黄の下襲、御家の紋の帽額を色々に織りたりしにや。近頃の使ひには似ず、いといみじくきらめき給へり。中宮の使ひは亮の藤房なり。この頃、時に遭ひたる者なれば、いと清げに劣らぬ様なり。
同じ正中二年(1325)の卯月([陰暦四月])十七日に、後醍醐天皇(第九十六代天皇)は賀茂の社(上賀茂神社・下鴨神社)に行幸になられました。上達部など多くは前と同様でございました。衣替えの下襲([束帯の内着で、半臂=朝服の内衣。または袍の下に着用する衣])を、揃えられてすずしげでございました。別当(日野資朝)の下部([召使い])、この度は十二人、褐([濃い藍色])に雉の尾を白く重ねて付けておりましたが、これも掲焉([目立つ様])に好ましげでございました。明くる日は祭り(賀茂祭=葵祭。かつて陰暦四月の中の酉の日に行なわれた例祭。今は五月十五日に行われる)でしたので、神館([社殿の近くに設けて、神官などが神事や潔斎のときにこもって物忌みをする建物])の方は、うち続き華やかで趣きがございました。今日の使いは、徳大寺中将公清(徳大寺公清)でございました。春宮大夫公賢(洞院公賢)の娘婿でございますれば、左大臣(洞院実泰。公賢の父)の大炊御門富小路の家よりぞ出で立たれました。人柄と言い、すべて優れたお方に思えました。萌黄([青黄色])の下襲に、家の紋の帽額([窠紋]=[円弧を花弁のように四、五個輪につなぎ合わせた形])を色々に織ったものでしたか。近頃の使いには似ず、たいそうきらびやかなものでございました。中宮(西園寺禧子)の使いは中宮亮の藤房(万里小路藤房)でございました。この頃、機を得た者でしたので、たいそう清げで他に劣らぬ装いでございました。
(続く)