またの年、 養和元年正月十四日に、院さへ隠れさせ給ひにしかば、いよいよ位などの御望みあるべくもおはしまさざりしを、かの新帝平家の人々に引かされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たち渡し聞こえて見奉り給ふ時、三の宮を次第のままにと思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて、泣き給ひければ、「あなむつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮ここにいませ」とのたまふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いと睦ましげなる御気色なれば、「これこそまことの孫におはしけれ。故院の児生ひにも、目見など覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四つにて位に就かせ給ひけり。
翌年、養和元年(1181)の正月十四日に、高倉院(第八十代天皇)がお隠れになられると、ますます帝位の望みなどあるはずもございませんでしたが、かの新帝(第八十一代安徳天皇)が平家の人々に連れられて、はるかな西海を彷徨われて後、後白河法皇(第七十七代天皇)は、孫であられた宮たちをお呼びになられてご覧になられました、三の宮(後の後高倉院)を年嵩に従って帝位にお就になろうと思われておられましたが、法皇(後白河院)をとても嫌がって、お泣きになられたので、「ああなんという奴だ」と申して、部屋から出されて、「四の君よこちらへおいで」と申すと、すぐに後白河院のお膝の上に抱かれて、とてもうれしそうになさっておいででしたので、後白河院は「これこそまことの孫であられるぞ。故院(第八十代高倉院)の子どもの頃と、目元がそっくりではないか。かわいいのう」と申して、寿永二年(1183)の八月二十日に、四歳で帝位に就かれたのでございます(第八十二代後鳥羽天皇)。
(続く)