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「増鏡」おどろのした(その10)

大方、いにしへ奈良の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、万葉集を撰びしよりこの方、延喜えんぎの聖の御時の古今集、友則とものり貫之つらゆき躬恒みつね忠岑ただみね。天暦の賢かりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、いまだ蔵人くらうどの少将など聞こえける頃、和歌所の別当とかやにて、梨壺の五人におほせられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞きにや侍らん。その後、拾遺抄は、花山の法皇の身づから撰ばせ給へるとぞ。白河院位の御時は、後拾遺集、通俊みちとしの治部卿うけたまはる。崇徳院しゆとくゐんの詞花集は、顕輔あきすけ三位撰ぶ。また、白河院下りさせ給ひて後、金葉集重ねて俊頼としより朝臣に仰せて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁すけひとの親王の御名乗りを書きたる。わろしとてなほされ、また奉れるにも、何事とかやありて、三度奏して後こそ納まりにけれ。かやうの例も、おのづからの事なり。べては、撰者のままにて侍るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌の浦にり立ちあさらせ給へば、まことに心ことなるべし。




そもそも、古の奈良帝(第五十一代平城天皇)の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣(橘諸兄。現在では大伴家持編纂説が最有力らしい)勅を承り、万葉集を撰ばれてより、延喜の聖主(第六十代醍醐天皇)の御時の古今集(『古今和歌集』)、友則(紀友則)・貫之(紀貫之)・躬恒(凡河内おおしこうち躬恒)・忠岑(壬生忠岑)。天暦の賢王(第六十二代村上天皇)の時代にも、一条摂政殿謙徳公(藤原伊尹これただ)が、いまだ蔵人少将などと申しておられた頃、和歌所([勅撰和歌集のために設けられた撰集所])の別当とかで、梨壺の五人([村上天皇の命により、平安御所七殿五舎の一つである昭陽せうやう舎に置かれた和歌所の寄人])に命じられて、後撰集(『後撰和歌集』)を編纂されたと聞いておりますが、本当でございましょうか。その後、拾遺抄(『拾遺和歌集』)は、花山法皇(第六十五代天皇)が自ら撰ばれたとお聞きしております(確証はないらしい)。白河院(第七十二代天皇)が位の御時には、後拾遺集(『後拾遺和歌集』)、通俊治部卿(藤原通俊 )が編纂されました。崇徳院(第七十五代天皇)の詞花集(『詞花和歌集』)は、顕輔三位(藤原顕輔)が編纂されました。また、白河院が位を下りられた後、金葉集(『金葉和歌集』)を重ねて俊頼朝臣(源俊頼)に命じて撰ばさせましたが、最初奏上した折には、輔仁親王(第七十一代後三条天皇の第三皇子)の名が書いてありました。よろしくないと書き直され、また奏上しましたが、何事とかあって、三度奏して後に納められたのでございます(白河院は弟である輔仁親王を嫌っていたらしい)。このような例も、ございました。大抵、撰者の書いたままでございましたが、この度は、院の上(後鳥羽院)自ら、和歌を選ばれたものでございますれば、まこと格別なものでございました。


続く


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by santalab | 2014-09-14 08:31 | 増鏡 | Comments(0)

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