かくて院の上は、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花紅葉の折々にふれて、万の遊びわざをのみ尽くしつつ、御心行く様にて過ごさせ給ふ。まことに万世も尽きすまじき御世の栄へ、次々今よりいと頼もしげにぞ見えさせ給ふ。御碁打たせ給ふついでに、若き殿上人ども召して、これかれ心の引き引きに、いどみ争はさせ給へば、あるは小弓・双六など言ふ事まで、思ひ思ひに勝ち負けをさうどき合へるも、いとおかしう御覧じて、様々の興ある賭け物ども取う出でさせ給ふとて、某の中将を御使ひにて、修明門院の御方へ、「何にても、男どもに賜はせぬべからん賭け物と申させ給ひたるに、取り敢へず、小さき唐櫃の金物したるが、いと重らかなるを、参らせられたり。この御使ひの上人、何ならんと、いといぶかしくて、片端ほの開けて見るに銭なり。いと心得ずなりて、さと面うち赤みて、浅ましと思へる気色著きを、院御覧じ起こして、「朝臣こそ、無下に口惜しくはありけれ。かばかりの事、知らぬやうやはある。古より、殿上の賭弓といふことには、これをこそ賭け物にはせしか。されば、今、賭け物と聞こえたるに、これをしも出だされたるならむ、古の事知り給へるこそ、いたきわざなれ」と微笑みてのたまふに、「さは悪しく思ひけり」と、心地騒ぎて思ゆべし。
その後院の上(第八十二代後鳥羽院)は、ともすれば水無瀬殿(現大阪府三島郡島本町にあった後鳥羽院の離宮)にのみ渡られて、琴笛の音、花紅葉の折々には、万の遊びを尽くされて、心行くままに過ごしておいででございました。まこと万世尽きるとも思えぬ後鳥羽院(第八十二代天皇)の世の栄えは、年々頼もしげに思われるのでございました。碁を打たれるついでに、若い殿上人どもを呼ばれて、誰かれも思い思いに、争わせましたが、ある者は小弓([遊戯用の小さい弓を用いた遊戯])・双六([バックギャモン])など言ふものまで、それぞれ騒ぎ合って争うのを、面白そうにご覧になられながら、様々のしゃれた賭け物を取らせようと、某の中将とか申す人をお使いに、修明門院(藤原重子。後鳥羽天皇の妃)の方へ、「何でもよい、男どもに与える賭け物を持たせよと申されましたが、急ぎ、小さな唐櫃で金物の飾りがあり、とても重そうなものを、参らせました。このお使いの上の人(責任者)は、いったい何かと、たいそう怪しんで、片端をわずかに開けて見ると銭でした。思いもしなかったことでしたので、たちまち顔を赤らめて、どういうことかといぶかしく思っているのを、後鳥羽院がご覧になられて、「朝臣こそ、そんなことも分からぬとは情けないのう。そんなことも、知らぬとは。古より、殿上の賭弓([賭弓の節]=[平安時代の宮中の年中行事の一つ。陰暦正月十八日に行われる弓術の競技会で、天皇臨席のもと、弓場殿で近衛府・兵衛府の役人が左右に分かれて射芸を競ったもの])というものは、これを賭け物にしたものよ。ならば、今、賭け物と申せば、これだと出されたのでしょう、昔のことを知ってこそ、究極を知ることになろう」と微笑みながら申されたので、「無知なやつ」だと思われたと、心は穏やかではございませんでした。
(続く)