この御急ぎ過ぎぬれば、先づ六波羅を御勘事あるべしとて、予ねてより宣旨に従へりし兵どもを忍びて召す。源中納言具行、取り持ちて事行ひけり。昔、亀山院に、御子など生み奉りて候ひし女房、この頃は、后の宮の御方にて、民部卿三位と聞こゆる御腹に、当代の御子も出で物し給へりし、山の前の座主にて、今は大塔の二品法親王尊雲と聞こゆる、いかで習はせ給ひけるにか、弓引く道にも猛く、大方御本性逸りかにおはして、この事をも同じ御心に置きてのたまふ。また、中務の御子の一つ御腹に、妙法院の法親王尊澄と聞こゆるは、今の座主にて物し給へば、方々、比叡の山の衆徒も、御門の御軍に加はるべき由奏しけり。
急ぎ([準備])を調え、まず六波羅を攻めるべしと、かねてより宣旨に従っていた兵たちを忍び集めました。源中納言具行(北畠具行)が、手配しました。昔、亀山院(第九十代天皇)に、皇子を生んだ女房がおりましたが、この頃は、后の宮(西園寺禧子)の方の、民部卿三位(源親子)と呼ばれておりました女房に、当代(第九十六代後醍醐天皇)の皇子がございました、山(延暦寺)の前の座主で、当時は大塔の二品法親王尊雲(護良親王)と申されておられましたが、どこで習われたのか、弓引く道にも勝れておられました、あらかた本性も血の気の多いお方でございましたので、帝(後醍醐天皇)は大塔の宮とも心を通じておられました。また、中務卿親王(尊良親王)と一つ御腹に、妙法院(現京都市東山区にある寺)の法親王尊澄(宗良親王)と呼ばれておられるお方がございましたが、当時の座主でございますれば、比叡山の衆徒([僧])も、帝(後醍醐天皇)の戦に加えるべきと、奏上したのでございます。
(続く)