かくて、父母も住み給ふ町には、寝殿には、貴宮より始め奉りて、こなたの御腹の若君たち、内裏の女御の御腹の宮たちなど。皆、おもと人、乳母、うなゐ、下仕へなんど、容、心、ある中に優りたるを選り候はせ給ふ。西の大殿は、女御の君の御方、東の大殿は、宮たち住み給ふ。父母、北の御方になむ住み給ひける。男君たちは、ある限り、廊を御曹司にし給ひて、板屋を侍にしてありける。女房の曹司には、廊の廻りにしたるをなむ、割りつつ賜へりける。太郎宰相の御方には、殿のあたりなりける所々を賜びつつ、御厩にし、御蔵町、政所にし、所々さし放ちつつなむしたりける。
そして、父母(藤原の君と女一の皇女)が住む町には、寝殿(中心となる建物)に、貴宮(九女)をはじめ、別妻(太政大臣の娘)の子たちや、内裏の女御(長女)の子たちなどを住まわせました。皆、おもと人(傍で貴人に仕える者)や、乳母、うなゐ(雑用係の子ども)、下仕え(雑用を務めた女)など、姿、心が、優れた者たちを選んで仕えさせました。西の御殿には、女御の息子、東の御殿には、娘たちが住んでいました。父母は、北の御殿に住んでおりました。男の子たちは、ある限りの、廊下を子供部屋にして、板屋を侍所(使用人たちの部屋の意でしょうか)にしました。侍女の部屋は、廊下のまわりにこしらえて、割り与えました。長男である宰相(参議のこと、長男は左大弁でした)には、寝殿の近くの所々を割り当て、馬小屋として使い、蔵町(蔵が立ち並ぶ一画)は、政所(事務所といったところでしょうか)を置いて、所々はそのまま放ってありました。
(続く)