九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それも厳めしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年来、思し結ぼ惚れつる女院の御心の内、名残りなく胸開きて、めでたく思さるる事限りなし。閑院殿修理せらるるほどとて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとど繁うさへ見奉らせ給ふに、御心行く事多く、げにいみじき老いの御栄えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞こゆ。上の同じ御腹におはすれば、万定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定め侍るままに、陣より、上達部、皆引き連れて、承明門院へ参る。大臣は御簾の内にて、女房の事どもなど、忍びやかに置きてのたまひけり。
九夜の儀式は、承明門院(源在子。第八十二代後鳥羽天皇の妃で第八十三代土御門天皇の生母)が催されました、この儀式もすばらしいものでございましたが、繰り返しになりますので。ここ数年、悲しみに沈まれておられた胸の内も、すっかり晴れて、おめでたく思われたのでございます。閑院殿([もと藤原冬嗣の邸宅。平安末から鎌倉中期には各天皇の里内裏])を修理されるということで、六月十五日に、帝(第八十八代後嵯峨天皇)は、承明門院(源在子の院御所)に行幸されました、承明門院はましてお元気そうで、心に適われることも多く、まこと老いの栄えとでも申しましょうか。覚子内親王と申されて、承明門院の許におられた孫、土御門天皇の姫宮でございましたが、六月二十六日でしたか、院になさいました。正親町院と申されました。上(後嵯峨天皇)と同じ腹(源通子)でございますれば、万事定通大臣(土御門定通。源在子の異父弟)が後ろ見されました。院号が定まるままに、陣([陣の座]=[左右の近衛府の陣内にあって、大臣以下の公卿が列座し、神事・節会・任官・叙位などの公事を議した場所])より、上達部を、皆引き連れて、承明門院へ参られました。大臣(土御門定通)は御簾の内に入られて、女房のことなど、ひそやかに申し置かれました。
(続く)