内には女御もいまだ候ひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに、今御方とかや聞こえて、傅かれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がねと、世の人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条の前の大納言公秀の娘、三条とて候はるる御腹にぞ、宮々数多出で物し給ひぬる、遂の儲けの君にてこそおはしますめれ。
内裏(北朝初代光厳天皇)には女御もまだおられませんでしたが、西園寺故内大臣殿(西園寺実衡)の姫君が、広義門院(第九十三代後伏見天皇女御、西園寺寧子。光厳天皇の生母)のお側に、今御方とかと呼ばれて、大切にされておられましたのを、内裏に参らせますれば、このお方が后がね([将来、后になるはずの人])でしょうと、世の人も早々おめでたいことに思っておりましたけれども、どういうことでしょうか、寵愛のほどはかばかしくなく残念に思われました。三条前大納言公秀(三条公秀)の娘(三条秀子)で、三条と呼ばれておりましたお方(光厳天皇典侍)には、宮々が数多くお生まれになられて、遂に儲けの君([皇太子]。益仁親王。後の北朝第三代崇光天皇)に立たれたのでございます。
(続く)