先朝船上に御坐あつて、討手を被差上、京都を被責由、六波羅の早馬頻りに打つて、事すでに難儀に及ぶ由、関東に聞こへければ、相摸入道大きに驚いて、さらば重ねて大勢を差し上せて半ばは京都を警固し、宗とは舟上を可責と評定あつて、名越尾張の守を大将として、外様の大名二十人を被催。その中に足利治部の大輔高氏は、所労の事あつて、起居いまだ快からざりけるを、また上洛のその数に入つて、催促度々に及べり。足利殿この事に依つて、心中に被憤思けるは、「我父の喪に居て三月を過ぎざれば、非歎の涙いまだ乾かず、また病気身を侵して負薪の憂へいまだ休まざるところに、征罰の役に随へて、被相催事こそ遺恨なれ。時移り事変じて貴賎雖易位、彼は北条四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。我は源家累葉の族なり。王氏を出でて不遠。この理を知るならば、一度は君臣の儀をも可存に、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖による故なり。所詮重ねてなほ上洛の催促を加ふるほどならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参つて六波羅を攻め落として、家の安否を可定ものを」と心中に被思立けるをば、人さらに知る事なかりけり。
先朝(第九十六代後醍醐院)は船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町)におられて、討手を差し上せ、京都を攻めようとしておられると、六波羅探題では早馬を幾度も鞭打ち遣わして、事すでに難儀([一大事])に及ぶと、関東(鎌倉幕府)に知らせました、相摸入道(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)はたいそう驚いて、ならば重ねて大勢を差し上せて半ばは京都を警固し、主だった兵で舟上山を攻めるべきと評定があり、名越尾張守(北条高家)を大将として、外様の大名二十人を集めました。その中にいた足利治部大輔高氏(足利高氏)は、病いを患って、起き上がることも思うままにならぬほどながら、また上洛の数に入れられて、催促は度々に及びました。足利殿(高氏)はこのことで、心中に憤りを覚えて、「我が父の喪から三月も過ぎておらず、悲しみの涙もまだ乾かぬうちに、病を患って負薪の憂い([自分の病気を謙遜していう言葉])さえあるというのに、征罰の役に従って、呼び出すとはどういうことか。時移り権力も変わり貴賎の位さえ容易く代わる世とはいえ、やつは北条四郎時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)の末孫ではないか。人臣に下って久しくなったものよ。わたしは源家累葉([子孫])の一族だ。王氏([天皇の子孫])を出たのはそう遠くない昔のこと。これを知っておれば、一度は君臣としての儀礼があってよいものを、これまで度々の沙汰に及ぶこと、ひとえに我が身の不肖([未熟で劣ること])によるものか。これ以上重ねて上洛の催促があれば、一家一人残らず上洛し、先帝(第九十六代後醍醐院)の味方に付いて六波羅探題を攻め落として、一家を盛り立ててやろう」と思うようになりましたが、人はこれにまったく気付きませんでした。
(続く)