両六波羅も名越尾張の守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも可寄事ならねば、日々に参会して八幡・山崎を可被責内談評定、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流なり。人心好悪苦不常」とは云ひながら、足利殿は代々代々相州の恩を戴き徳を荷つて、一家の繁昌おそらくは天下の肩を可並もなかりけり。その上赤橋前の相摸の守の縁に成つて、君達数多出で来給ひぬれば、この人よも二心はおはせじと相摸入道ひたすらに被憑けるも理なり。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、兼ねてより被定ければ、名越尾張の守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作り道より被向。足利治部の大輔高氏は、搦め手の大将として五千余騎、西岡よりぞ被向ける。
両六波羅(北方は北条仲時、南方は北条時益)も名越尾張守(北条高家)も、足利殿(足利高氏)にこのような企みがあるとは思いも寄らず、日毎に参会して八幡(現京都府八幡市)・山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)を攻めるべく内談評定([内々での話し合い])を、残すところなく尽くしましたが無益なことでした。「大行の路は車を砕くほど険しいが、人の心に比べればなんてことはない。巫峡([中国・長江三峡の二番目の峡谷])の流れは舟を覆すが、人の心に比べればなんてことのない流れよ。人心の好悪苦の思いは常に変わるものだ」とはいうものの、足利殿(高氏)は代々相州(赤橋守時。登子の兄。相模守)の恩を受け徳を支えて、一家の繁昌はおそらく天下に肩を並べる者はいませんでした。その上赤橋前相摸守(赤橋守時)と縁になって(足利高氏の正室は、守時の娘登子)、君達も多くいましたので、高氏が謀反の心を持っていはずもないと相摸入道(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)もひたすら頼りにしていましたがもっともなことでした。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、かねてより決めていたので、名越尾張守(北条高家)は大手([敵の正面に当たる軍勢])の大将として七千六百余騎、鳥羽の作り道([新道])より向かいました。足利治部大輔高氏(足利高氏)は、搦め手([敵陣の後ろ側を攻める軍勢])の大将として五千余騎、西岡(現京都府乙訓郡西岡)より向かいました。
(続く)