この物語、高き代の事にて、歌も言葉も、様異に古めかしう見えしを、蜀山の道のほとりより、賢しき今の世の人の作り変へたるとて、無下に見苦しき事ども見ゆめり。いづれかまことならむ。唐土の人の「うちぬるなか」と云ひけむ、空言の中の空言をかしう。
貞観三年四月十八日、染殿の西の対で書き終はりぬ。
花非花霧非霧 夜半来天明去
来如二春夢一幾多時 去似二朝雲一無二覓処一。
この物語は、ずいぶん昔の話なので、歌も言葉も、今とはちがって古めかしく感じられますが、蜀山の道(「松浦宮物語」二)のあたりから今の世の人が作り変えて、まったく趣きを失っているところも見受けられます。元はどうだったのでしょう。唐土の人(宋玉)が「うちぬるなか」(『怠而昼寝 夢見一夫人』?)と書いた、空言の中の空言(夢の中での夢のような話)である『高唐賦』(楚の懐王が高唐で遊び疲れて昼寝をした時、夢の中で巫山の神女と通じた。神女が去って行く時、朝には朝雲、暮れには通り雨となって参りましょうと申して、その通りになったという話)と申した、そのような話なのです。
貞観三年(861)四月十八日に、染殿(藤原良房の邸宅)の西の対屋で写し終わりました。
あなたは花のようにかぐわしいけれど花でもなく霧のように朧げながら霧ではない。
夜になるとやって来て夜が明けると去って行く。あなたはまるで朝雲のように去り、わたしだけが残されるのだ。(白居易)
(続く)