その後、伊東の次郎、この事ありのままに京都へ訴へ申して、長く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢・所当におきては、芥子ほども残らず、横領する間、祐経、身の置き所なくして、また、京都に帰り上り、秘かに住す。伊東に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、祐経が妻女取り返し、相模の国の住人土肥の次郎実平が嫡子弥太郎遠平に逢はせけり。国にはまた、並ぶ者なくぞ見えたり。しかれども、「功賞なき不義の富は、禍ひの媒」と、左伝に見えたり。しかれば、行く末いかがとぞ思えし。
その後、伊東次郎(伊東祐親)は、この事をありのまま京都へ訴へ申して、以降祐経(工藤祐経)を本所([荘園領主・知行国主])と認めなかったので、年貢・所当([中世、割り当てられて官または領主に納める物品])は、芥子粒ほども残さず、横領しました、祐経は、身の置き所をなくして、また、京都に帰り上り、ひっそりと住むようになりました。伊東(祐親)に、祐経は悩まされ、本意を忘れ、一方伊東祐親は祐経の妻女(万劫御前)に取り返し、相模国の住人土肥次郎実平(土肥実平)の嫡子弥太郎遠平(土肥遠平)の妻になりました。国にはまた、並ぶ者はいないように思えました。けれども、「功賞なき不義の富は、禍いの元」と、左伝(『春秋左氏伝』。中国春秋時代の注釈書)に書かれています。ですから、行く末はどうなることかと思われました。
(続く)