かくて、いと賢き、時の人にて、夜昼、内裏・春宮に候ひて、定めたる妻もなし。思ひ掛くまじき人に物聞こえなどして、この貴宮の、名高くて聞こえ給ふを、「いかで」と思ひて、言ふ戯るる人に物も言はず、良き人の娘賜へど得で、大将殿の兵衛佐の君、同じ府に物し給ふを、麗しく語らひ聞こえてあるを、大臣見給ひて、「ここに、かく若き男子ども、数多侍る所なり。定めたる里なんども給はざなるを、顕澄が侍る所を、『里』と思ほせかし。宮あこまろを弟子にし給へ。いかで、これをだに、物聞き知りたる者に生ほし立てむ」とのたまひければ、行正、喜びて、兵衛佐の君の御方に曹司作りて、ただそこにのみなむありける。
こうして、良岑行正はとても名高く、時の人となって、夜昼、内裏・春宮に仕えましたが、決まった妻はいませんでした。思いもかけず人から噂を聞くと、貴宮が、評判高いということでしたので、「どうにかして妻に」と思っていました、言い寄ってくる者には返事もせずに、身分の高い者の娘を妻にとの話も断っていました、大将殿(源正頼)の兵衛佐の君(正頼の五男、顕澄)が同じ府にいました、親しい仲でしたので、これを大臣(正頼)が知って、行正に、「わたしの殿には、若い男の子が、たくさんいます。決まった里([生家])もないのであれば、顕澄がいるここを『里』と思えばよろしい。宮あこまろ(正頼の子)を弟子にしてほしい。なんとかして、宮あこまろを、物知り者に育てたいのだ」と申したので、行正は、喜んで、兵衛佐の君(顕澄)の殿に曹司([部屋])を作り、そこに住むことになりました。
(続く)