兵怪しくや見るらんと、落つる涙を押し止め、「人々、これを聞き給へ。国王の太子とて、優に使ひたる言葉かな。かうこそ」と言ひけるが、さすが恩愛の別れ、包み兼ねたる涙の袖、絞りも敢へず、余所の哀れを催しつつ、相従ふ兵、差し当たりたる道理なれば、ともに感ぜぬはなかりけり。その後、太子、高声にいはく、「我はこれ、かうめい王の子、生年十一歳。父一所に迎へ給へ」と言ひも果てず、剣を抜き、貫かれてぞ、伏しぬ。杵臼、同じく立ち寄りて、「御健気にも、御自害候ふものかな。某も、追ひ付き奉らん」とて、腹十文字に掻き破り、太子の死骸に転び掛かりて、伏しける有様、見るに言葉も及ばれず、無慙なりし例なり。
程嬰は兵どもが怪しく思うと、落ちる涙を押し止め、「人々よ、聞かれたか。さすが国王の太子よ、立派な言葉ではないか。こうありたいものだ」と言いましたが、さすが恩愛([夫婦・肉親間の愛情])の別れに、包み兼ねた涙の袖を、絞りかねて、あたりに悲しみを誘い、従う兵どもも、哀れに思うのは当然のことでした、ともに悲しまない者はいませんでした、太子(の身代わり)は、声高に申して、「わたしは、かうめい王(孝明帝)の子である、生年十一歳。父の許へ迎え給へ」と言いも果てず、剣を抜き、貫かれて、倒れました。杵臼は、側に寄り、「ご立派に、自害なされた。わたしも、すぐに参ります」と申して、腹を十文字に掻き破り、太子の死骸に重なるように、伏す様は、見るに言葉も及ばず、哀れなことでした。
(続く)