証空は、母の心を取り鎮めて、「よくよく聞こし召せ、師匠の御恩徳に、何をか例へ候ふべき。はかなき仰せとぞ思えて候へ」。「はかなき母が生み置きてこそ、尊き師匠の恩徳をも蒙り給へ。母の恩、大海よりも深しとは、誰やの者か言いひ初めける」。「親は一世、師は三世、浅き哀れみなり。知らせ給ふらん」。「何とて、情けはましまさぬぞ。今日の命を知らぬ身の、恥をば誰か隠すべき。叶ふまじ」とて、取り付きたり。「聞き給はずや、浄飯大王の御子悉達太子は、一人おはします父大王を振り捨てて、阿羅邏仙人に給仕し給ひしぞかし」。「それは、生きての御別れ、これは、死すべき別れなり。例へにも成るべからず」。「御言葉の重きとて、只今隠れ給ふ師匠をや殺し奉るべき」。「まことに、自ら物ならずは、暇を請ひても、何かせん。七生まで不孝ぞ」と言ふ言ふ、転び給ひける。
証空は、母の心を鎮めて、「よくお聞きください、師匠恩徳に、代わるものはありません。母が何を申したところで気持ちは変わりません」「取るに足らないわたしですが母が生んだからこそ、尊い師匠の恩徳を蒙ることができたのです。母の恩、大海よりも深しとは、わたしが申したことではありませんよ」。「親は一世、師は三世、母の情けは師よりも浅いものです。知っておられるでしょう」。「どうして、母に情けは掛けてくれないのです。今日の命も知らぬ身ならば、恥とも思いません。そなたを身代わりにはさせません」と申して、証空に取り付きました。「お聞きになったことがありましょう、浄飯大王の子悉達太子(釈迦の出家以前の名)は、ただ一人の父大王を振り捨てて、阿羅邏仙人(釈迦が出家して最初に解脱の道を尋ねた人)の弟子になったのです」。「それは、生きての別れ、今は、死の別れです。例えにはなりません」。「母の言葉に従い、今にも隠れようとしておられる給ふ師匠を見殺しにはできません」。「仕方ありません、わたしの願いを聞けないと言うのなら、別れを、申すまでもないことです。七生までの不孝とは思わないのですか」と申して、倒れ伏しました。
(続く)