母これを見て、『その亀放せ。汝が父の命日ぞ』。婆羅門聞きて、『忌日ならば、沙門をこそ供養せめ』と言ひて、抑へて殺さんとす。亀涙を流して、『我が八十年後、我不堕地獄、大慈大悲故、必生安楽国』とぞ鳴きける。母、これを聞き、『汝、亀の言葉聞き知れりや』。『知らず』と答ふ。『亀は、罪深き物にて、万劫の罪障を経て、成仏すべきに、今剣に従はば、また劫を経返すべき悲しさよとなり。願はくは、その亀を放して、自らを殺し候へ』と言ふ。『まことに亀の命に代はり給ふべきにや』と言ひも果てず、亀を海上に投げ入れ、即ち剣を抜き、母に向かふ時、天神地神も、これを捨て給へば、大地裂け割れて、奈落に沈む。母を殺さんとする子の命を悲しみて、心ならずに母走り向かひ、婆羅門が髻を取り給へば、即ち頭は抜けて、母の手に留まり、その身は無間に沈みけり。されども、亀を放せし力に依りて、仏果を得、法華経の普門品を、婆羅門身と説かれたる。斯様の子をだにも、親は哀れむ習ひにて候ふものを」。
母はこれを見て、『その亀を放しなさい。そなたの父の命日ですよ』と言いました。婆羅門はこれを聞いて、『忌日ならば、沙門([バラモン階級以外の出身の男性修行者])に供養させればよろしい』と言って、亀を抑えて殺そうとしました。亀は涙を流して、『わたしは八十年後には、地獄に堕ちることなく、仏の慈悲により、必ずや安楽国([極楽浄土])に生まれるはずだったのに』と鳴きました。母は、これを聞いて、『お前は、亀の言葉を知っていますか』と訊ねました。婆羅門は『知らない』と答えました。母は『亀は、罪深い物なれば、万劫の罪障を経て、成仏するものです、今剣に命を落とせば、劫の間地獄に堕ちることを悲しんでいるのです。願わくは、その亀を放して、このわたしを殺しなさい』と言いました。『本当に亀の命に代わろうと』と言い果てず、亀を海に投げ入れ、たちまち剣を抜き、母に向かう時、天神地神も、婆羅門を見捨てて、大地は裂け割れ、婆羅門は奈落([地獄])に沈みました。母は自らを殺そうとした我子の命を悲しんで、とっさに走り寄って、婆羅門の髻を掴むと、たちまち頭は抜けて、母の手に残り、その身は無間([無間地獄]=[地獄の最下層に位置する地獄])に沈みました。けれども、亀を放した力に依り、仏果を得て、法華経の普門品(『観音経』)に、婆羅門身(観音の三十三応現身像の一)として説かれています。このような子でさえも、親はかわいいものでございます」と申しました。
(続く)