さて、兄弟の人々は、我が方に帰り、この小袖を中に置き、「嬉しくも推参しつるものかな。只今許されずしては、多生を経るとも叶ふまじ。生きて二度帰る様に、小袖返せと仰せられつるこそ、愚かなれ。何しに返せとは言ひつらん、神ならぬ身の悲しさよと、後悔し給はん事、今の様に思えたり」とて、打ち傾きて泣き居たり。「我ら、世にありて、心のままに、親の孝養をも致さば、これほどまで思はぬ事もありなまし。この三年こそ、不孝の身にては候へ。それさへ恋しく思ひ奉る。ある時は、物ごしにも見奉りて慰みしに、只今御許しを蒙り、一日だにもなくて、出でん事こそ悲しけれ。死に給へる父を思ひて、孝養せんとすれば、生き給へる母に、物を思はせ奉る。されば、我らほど、親に縁なき者はなし。後の世まで尽きせぬ、手跡に過ぎたる形見なし。いざや、我ら一筆づつ、忘れ形見残さん」とて、墨摺り流し、かくばかり、
「今日出でて めぐり合はずは 小車の このわの内に 無しと知れ君
祐成年二十二、後の世の形見」とぞ書きける。
その後、兄弟の人々(曽我祐成・時致)は、我が宿所に帰り、この小袖を中に置き、「うれしいことよ推参([自分の方から相手のところに押しかけて行くこと])してよかった。今回許されなければ、多生を経るとも許されることはなかったであろう。生きて再びこの世に帰ってくると、小袖を返せと申されたが、どうすることもできぬ。どうして返せと申されたのか、神ならぬ身の悲しさよと、後悔されるであろうこと、眼に浮かぶようだ」と申して、うなだれて泣きました。「我らが、世にあって、心のままに、親の孝養ができるのなら、これほどまで決心することもなかったやもしれません。この三年は、不孝の身でした。その頃さえ恋しく思われます。ある時は、物ごしに母を見て心を慰めていましたが、今お許しをいただき、一日も経たない内に、ここを出ていかなければならないことが悲しいのです。亡くなった父(河津祐泰)を思って、孝養しようとすれば、生きておられる母を、悲しませることになります。ならば、我らほど、親に縁のない者はおりません。後の世まで尽きないこの思い、手跡([文])に勝る形見はありません。さあ、我ら一筆ずつ、忘れ形見を残しましょう」と申して、墨を摺り、こればかり、
「今日ここを出て、再び巡り合うことが叶わなければ、小車([牛車])の子の輪の内にいない者と諦めてくださいますよう。
祐成年二十二、後世の形見に」と書きました。
(続く)