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三浦の与一も、与くみせざりしが、幾ほどなくして、御勘当かんだうを蒙かうぶり、出家してげり。人はただ不孝ふかうの道をば、正しくすベき事や。
三浦与一も、曽我兄弟の仇討ちに加わったわけではありませんでしたが、いくほどもなく、鎌倉幕府から勘当を受け、出家しました。人はただ不孝の道を、正すべきと思ってのことだったのでしょうか。
(続く)
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