玉妃、暫く案じて、「天宝十四年の秋七月七日の夜、天にありて、願はくは比翼の鳥、地にありて、願はくは連理の枝、天長地久にして、尽くる事なからんと、知らず、奏せんに、御疑ひあるべからず」と言ひて、玉妃去りぬ。方士帰り参りて、皇帝に奏聞す。「さる事あり、方士誤りなし」とて、飛車に乗り、我が朝尾張の国に天下り、八剣の明神と顕れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ちこの所とぞ申す。兵衛佐殿は、若君、北の御方御行く方、知らせ奉る者なかりしかば、慰み給ふ事もなかりけり。
玉妃(楊貴妃)は、しばらく考えて、「天宝十四年(755)の秋七月七日の夜のことですが、天にあっては、願わくは比翼の鳥([雌雄それぞれが目と翼を一つずつ持ち、二羽が常に一体となって飛ぶという、中国の空想上の鳥])、地にあっては、願わくは連理の枝([連理=一本の木の枝が他の木の枝と連なって木目が通じ合っていること。となった枝。夫婦・男女の仲むつまじいことのたとえ])、天長地久([天地が永久に不変であるように、物事がいつまでも変わらずに続くこと])にして、そなたへの想いは尽きることはないとおっしゃられました、誰も知らないことです、これを申せば、信じてもらえるでしょう」と申して、玉妃は去りました。方士([中国古代の方術=仙人の使う霊妙な術。を行なった人])は帰り、皇帝(玄宗皇。唐の第九代皇帝)に申し上げました。玄宗は「そういうことが確かにあった、方士の申すことに偽りはない」と申して、飛車に乗り、我が朝である尾張国に天下り、八剣明神(現愛知県名古屋市熱田区にある八剣宮)として顕れました。楊貴妃は、熱田明神(現愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮)となりました。蓬莱宮は、この地にあったと伝えられています。兵衛佐殿(源頼朝)は、若君(千鶴御前)、北の方(伊東祐親の三女)を失い、居場所を知らせる者もいませんでしたので、心を慰めることもできませんでした。
(続く)